詩集【紡ぎ詩Ⅲ】 ~恵想花~
そんなことを考えながら
愛おしさを持って掌の中の小箱を握りしめる
そうっとそうっと壊さないように
それは大切な遠い記憶だから
かつて祖母が丹精した薔薇が古くなった家屋の壁に蔓を這わせ
ベルベットのような紅い花を咲かせているている
真珠の小箱を眺めながら
初夏の午後 一人 追憶のかけらが消えた彼方を眺める
ピカピカに磨き上げた真珠の小物入れに
新しいお気に入りのアクセサリーでも入れてみよう
きっと 大切な人たちのの想いと今の自分が繋がるから
☆『坂の上から』
坂の上から
坂道を通りゆく人々を眺める
正しくいえば
私のいる建物の窓から坂道を見下ろせるのだ
もう何年といわず何十年もの間
この同じ場所でたくさんの人を見てきた
昨日のことだ
時は夕刻
坂道を二人の高校生が自転車で駆け上っていった
弾けるような歓声が束の間
黄昏時のしじまを破り
男女の高校生たちは吹き抜ける新緑の風のように見えなくなる
更に数分後
今度は ずっと幼い二つのはしゃぎ声が聞こえたと思ったら
小学校二年くらいの男の子二人が
小さな自転車に乗って坂を上っていった
記憶が巻き戻され
時間が遡ってゆく
そう あれはいつだったろうか
坂を見晴るかせるあの場所に佇み
自分より はるか年上の高校生たちをそっと眺めたのは
坂道のふもとで
いつも学校帰りにデートしていたカップルがいた
男子学生は自転車を押し その傍らに寄り添うように女の子が立っていた
何がおかしいのか 二人はひそひそ声で囁き合ってはクスクスと笑い合っていた
彼等が時折 交わす意味ありげな視線に
私はドキリとして 見てはならない大人の世界をのぞき見したような気分になったものだ
当時 私は小学生低学年
やがて何年か経ち
年上のお兄さんお姉さんは いつしか坂道を通ることはなくなった
数年後
今度は自分が中学生となり
中の良い女友達と学校帰りに坂のたもとで立ち話するようになる
部活動 勉強のこと クラスメートのこと
他愛ない話題一つで
何時間も夢中になって
気が付けば数時間が経ち
暮れなずむ夕暮れの坂道を自宅へと慌てて走って帰る友達の背中を
名残惜しい想いで幾度も見送った
坂道の途中 道に面したとあるお宅には
可愛い犬がいて 年取ったおばあさんが一人で世話していた
散歩に連れていって貰えないものだから
見知らぬ人が通れば歓んで 体一杯親愛の情を示す
坂道を人が通りかかる度
犬小屋から飛び出して吠える
その度に 通行人は
どこからともなく飛び出してきた犬に仰天していた
その頃 既に私は二十代
坂を見下ろせる場所から
その光景を笑ってはならないと思いつつ笑っていた
ある夜
友人の披露宴に呼ばれての帰り道
近道を通った
自転車で一挙に坂道を駆け下りようとしたら
いきなり犬が現れて ワンと吠えるものだから
危うく自転車ごと ひっくり返りそうになった
後で 他人の愕くのを笑って見ている罰だろうと苦笑する
あんなこともあった
こんなこともあった
時が忘れさせた記憶の狭間のあちこちに降り積もった様々な想い出が
一挙に押し寄せ
胸苦しいほどの懐かしさと愛おしさが押し寄せる
子どものときから同じ場所に立ち続け
眺めた数え切れないほどの人々に想いを馳せる
あの人たちは今 どうしているだろうか
そんな物想いを断ち切るかのように
赤ちゃんの元気な泣き声が新たに響き渡った
今度は
ベビーカーを押した若い母親が坂道をゆっくり昇ってゆく
もしかしたら
あれは二十年前
初めての子育てに奔走していた頃の自分の姿かもしれない
オレンジ色の優しい光が母子を包み込む中
赤ちゃんを連れたお母さんは坂道を上り 見えなくなった
気が付けば
人気のない長い坂道が
立ちこめ始めた初夏の宵闇に
白々と浮かび上がっている
『紫陽花の咲く頃には』
紫陽花の咲く季節には思い出す
命の重さ 生きる喜び
そう あれはもう13年も前
末っ子を出座するまでいよいよ2カ月というある日
体の変調を感じた
顔の右半分が突然動かなくなり
絶望感しかない日々の中
病院に行く途中の川沿いにひっそりと紫陽花が咲いていた
折しも雨上がりの空が湖のように晴れ渡り
ひと筋の光が深く染め上がった花を照らし出し
その場所だけが際立っていいた
エメラルドグリーンの葉に乗った雫が初夏の日差しに水晶のように煌めき
なぜか涙がが止まらなかった
今まで何気なく見ていた風景に涙が溢れた
生きているのは幸せだと
こんなにも美しいもの綺麗なもので世界は溢れていると
たたった一輪の花がそつと教えてくれた
あれから月日が経ち
早産だったが無事生まれた赤ちゃんが今年まもなく13才の誕生日日を迎える
今年もまた紫陽花が海色に染まる季節になった
しっとりと6月の雨に濡れる花が何かを語りかけているような気がして
雨の中 しばし花と見つめ合う
紫陽花の咲く頃には必ず記憶に蘇る
あの日の命の輝きに煌めいていた花を鮮やかに瞼に浮かべながら
☆「星空インク」
手作りサイトで不思議な栞を見つけた
少し大きめの金古美製の羽根に小さなペンのチャームが揺れている
ついでに雫型の蒼い石がついている
よくよく見ると
涙の形をした石はただのミッドナイトブルーではなく
銀河を浮かべた夜空をギュッと閉じ込めたような色合いをしている
このしおりは作った人が愛用している万年筆用のインクから着想を得たという
もし こんなインクがあったらと涙型の石に夢の色を託したそうだ
しおりの名前は「星空インク」
もし こんな色合いのインクが存在したら
きっと宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のような作品が描けるだろう
私は大の読書好きなので
しおりは結構集めているが こんな素敵なしおりは初めてだ
注文して何日か過ぎ
待っていた星空インクのしおりが届いた
最初は普通のしおりに見えるけれど
使っている中 見れば見るほど
何か本当にこの羽根の形をしたペンから
星を浮かべた夜空のインクが出てくるような気がしてくる
その作り手さんは しおりだけでなく本と本を形作るあらゆるものを愛している
その点で私たちは意見がぴったりと合った
私が小説を書いていることを話したら
―ゆっくりとでも良いから小説を書き続けていって下さいね。
と言われた
そのことが嬉しかったと告げれば
―書き続けてと言うのには迷いがありました。何故なら、何かを続けることは難しいと思うから。でも、続けるそのことで誰かを笑顔にしたり、自分自身が困難に陥った時、それが励みや救いになれば良いですね。
そう言ってくれた
こんなことを言う人はなかなかいない
恐らく この人も物作りの中で色々なことを体験し考えてきたのだろう
たくさんの試練や哀しみを乗り越えた人は
想像もつかないほど強く優しくなれることを私は知っている
この話を聞いてから ますます星空インクのしおりが魅力的に思えてきた
―これからは星空インクで作品を描くつもりです。
私は彼女に話した
今までよりは少しでも素敵な作品ができるに違いない
何しろ これは魔法のインクだから
このインクで書いた小説を読む人は
美しい星空を眺めるような気分になるかもしれない
―とある小説書きが小さな町の片隅の雑貨屋で
作品名:詩集【紡ぎ詩Ⅲ】 ~恵想花~ 作家名:東 めぐみ