詩集【紡ぎ詩Ⅲ】 ~恵想花~
この娘の更に進んでゆく先にも満開の花があらんことを祈りつつ
静かな歓びで満たされて待つ卒業式の前日
―明日は晴れますように―
☆『残花』
花だよりが東京から聞こえて数日
我が家の桜もそろそろかなと見にいったら
もうほぼ八分咲きになっていた
愕いて慌ててカメラを取りに戻る
川沿いにひっそりと佇む一本の桜
もう二十年余り前に善意の人によって植えられたものだ
その人は苗木に毎朝 休むことなくせっせと水を与えていた
今 立派に成長した桜が道行く人々の眼を愉しませてくれる
弥生にまず庭の白木蓮が咲いたら次は川のほとりの桜だ
桜を見る前に白木蓮を見たら既にあらかた散っていた
花の生命は本当に短い
咲いたと思ったら 瞬く間に散る
咲くときも ひっそりと開き
人知れず散る
その潔さは哀しくなるほど愛おしい
来年もまた わずか数日間咲くために
花は長く厳しい季節を耐え抜くのだ
何度散っても また何度でも花は咲く
―ただ一輪だけ残りし花よ
心の中で呼びかける
私もまた来年の春を心待ちにしよう
「あなた」が花を咲かせるのを愉しみにしながら
良いときも試練も乗り越え
自分だけの花を咲かせるために努力を続けよう
―今年も美しい花を咲かせてくれて、ありがとう。
来年、また逢えるのを愉しみにしています。
まるで 長年の友人に手紙を書くように
旅立つ同志に名残を惜しむかのように
たった一つ残った白木蓮に語りかけた
少し離れた場所には
これから盛りを迎えようとしている桜の薄紅色が霞雲のようにたなびいて見える
『心が洗われるような瞬間』
心が洗われるような瞬間というのは確かにある
読み終えた後、何ともたとえようのない優しい気持ちにさせてくれる小説
見た途端、心の奥底に降り積もった塵芥(ちりあくた)をきれいさっぱり洗い流してくれる清々しい純白の花
聞きながら、思わず涙してしまうような心の琴線を震わせる名曲
どれもが人生で奇しくも出逢えた貴重な宝物に違いない
そんなものたちに触れた束の間の後
自分の心が嘘のように軽やかになっているのを感じる
生まれ変わったような
自分を取り巻く世界の色が鮮やかさを増し
自分以外のすべての人たちにも幸せになって欲しい
誰かに優しくしたい
誰かのためになることをしてみたい
そういう気持ちに自然としてくれる
それを癒しと呼ぶのかもしれない
小説を書いているとき
真っ正直な主人公を描くことがある
踏まれても叩かれても誰も恨まず ひたすら真っすぐに生きる主人公を描き切ったとき
対照的な自分が恥ずかしくなる
同時に 何かとても優しい気持ちになれる
自分とは天と地ほども違うヒロインなのに
何故か主人公の気持ちを少しだけ分けて貰ったように穏やかな気持ちになっている
たとえがふさわしくないもかれしないが
清らかなものを見て心が軽やかになったときの気持ちと
主人公の優しさを分けて貰ってときの気持ちは不思議と似ている
恐らく自分が作り上げた主人公に恥ずかしくないだけの生き方をしたい
そう願う自分の気持ちの表れだろう
美しく生きることは難しい
けれど 美しく生きようと努力することなら誰にでもできる
今日のささやかな努力が明日の自分を少しでもよりよい方へ変えてくれるのを願いつつ
小さな努力を積み上げてゆく
昨日 心が洗われるようなピアノの調べを聞いた
今日 心まで純白に染め上げてくれるような無垢で真白な花を見た
そして明日 心から応援したくなる主人公が活躍する小説を読み終える予定だ
美しさというのは手の届かない遠い場所にあるのではなく
探せば自分のすぐ側にあるものだとこの年になって知った
☆『導きの蝶~不思議の森へようこそ~』
ひそやかに地面を打つ雨の音が
心の奥底にまで染みいってくるような初夏の宵
吹き抜けの廊下に一人佇み
雨音に耳を傾けてみる
かそけき音はいずこかの世界へと私をいざなう魔法の調べ
それは現ならぬ摩訶不思議な場所
一瞬 夜陰に甘い花の香りが混じり
周囲の音がふっと途絶えた
あたかも舞台の背景が暗転するかのように
次の瞬間 眼前に現れたのは深い漆黒の闇の中
妖しく煌々と輝く満月と咲き誇る白い花たち
何の花かは知らねど 細やかな花びらを無数につけた小さな花たちが集まり
青白い月明かりに花びらが白蝶貝のように淡く煌めいている
夜風に混じる花の香りがふっと強くなった
刹那 強い夜風が吹き渡り 大樹の梢を妖しくざわめかせる
申し合わせたように一斉に風に舞い上がる花びら
花びらがいつしか純白の雪に変化し
私は降り止まぬ雪の花びらを見つめ続ける
呼吸さえ忘れたように 魂を絡め取られてしまったように
気が付けば 眼の前を小さな蝶がひらひらと飛んでいった
蝶が舞い
月は輝き
花は香る
月光に蒼く染まった蝶の名前を私は知らなかった
降りしきる雪の中を満開の花に戯れかけるように飛ぶ蒼き蝶
ずっと このまま美しい世界に自分を閉じ込めて
時を止めてしまいたい
抗いがたい危険な欲求を憶え始めたそのとき―
蝶がふっとかき消えた
眼を見開く私の前にひろがる現実
聞こえるのは先刻と変わらない静かな雨音と
月もない一面の宵闇ばかり
五月の潤んだ大気を纏う夜は危うい魔力を秘めているのかもしれない
ふっと心の枷が外れたその瞬間
人は現実の向こうに潜む現ならぬものにいざなわれる
溜息をついて部屋に入ろうとた一瞬
雨の匂いに混じって花が強く香った
その香り高さはジャスミンに違いない
けれど 自宅にも近所にもジャスミンの花などどこを探してもないのだ
―どころか 今 眼前の庭には何の花も咲いていない
心を揺らす魅惑的な花の香りに未練残しつつも
疑問を封じ込めるように 雨音に背を向ける
初夏の夜 こころを現ならぬ世界に残して
☆『真珠の小物入れ~想い出のカケラ~』
鏡台の片隅でふと見つけた小箱
表面には一様に小粒の真珠があしらわれた小物入れだ
そっと手のひらに乗せてみる
埃を一面に薄く被った箱を開ければ
甦る想い出 また想い出
胸苦しいような懐かしい記憶
切なく泣きたくなるような郷愁
あれはまだ父が 祖父母が生きていた頃
私はまだ幼かった
祖母が旅行で伊勢からお土産として買ってきてくれた小物入れだった
母がしみじみと見入って言ったものだ
―これは伊勢の真珠でできたものだから、高価なものよ。大切にしなさい。
あの母の言葉が今 ありありと耳許で聞こえた
何気なく手を伸ばして埃を払おうとすると
表面にはりつけられた真珠の一つが
ふっと取れそうになった
慌てて更に慎重な手つきで触れてみる
屋内では埃が立つので廊下に出て
ティッシュペーパーで少しずつ丹念に埃を払ってゆく
数十年分の埃はなかなかきれいにならない
わずかずつ取れていく埃が初夏の大気に舞って高く高く青い空に昇ってゆく
そのゆくえを眼で追いかけながら
まるで 一つ一つが自分の上に流れた年月のようだと思った
父が 祖父母が 旅だってからの
長い長い気の遠くなるような歳月
大切な人たちと過ごした追憶のかけらたち
立ち上った埃はやがて空の蒼に吸い込まれて見えなくなる
―もう少し濡れティッシュで拭けば、昔のようにきれいに戻るかもしれない。
作品名:詩集【紡ぎ詩Ⅲ】 ~恵想花~ 作家名:東 めぐみ