詩集【紡ぎ詩Ⅲ】 ~恵想花~
それは目に見えない記憶
大切な大切な私の―母と子の刻を刻んだ日々
過ぎ去った日々が今はただひたすら愛おしい
ふと目に付いた一つの写真立てを手に取れば
たちまち止まっていた刻が動き出す
あれは娘が一歳の誕生日を迎えた日
夫と私と娘の三人で写真館で撮ったものだ
三月三日生まれの娘はお雛飾りの前で澄まして笑っている
もう一つの写真立てをのぞき込めば
そこには赤ちゃんを負ぶった私の満面の笑み
背中の赤ちゃが次女の顔に似ていると思ったら
それは まだ二歳の頃の長男だった
男の子は女の子と違って 赤ちゃんの頃と成長した後は劇的に顔立ちが違ってくる
お雛様と一緒に澄まして初節句の写真に写っていた娘が
来年 成人式を迎える
数日前 少し早いが成人式の前撮り写真を撮って貰った
振り袖姿の艶やかな我が娘の晴れ姿に
綺麗だなぁと呟いた親馬鹿の母は目頭が熱くなった
思えば あっという間の二十年
辛いこともあったけれど 嬉しいことの方が数倍も多い子育ての日々
私は小さな溜息ひとつ吐いて写真立てを元に戻す
溢れ出しそうな想い出と涙をその部屋に閉じ込め
大切な宝物をしまった宝石箱のふたを閉めるかのように
そっと扉を閉じた
☆「一年後の月」
うす蒼い夜明け前の空に少しだけ欠けた月が掛かっている
三日月ともいえず 満月には足りない中途半端な形で
危うさを纏い どこか愁いに満ちた表情で
ゆっくりと静かに私を見下ろしている
同じ場所に佇み下弦の月を見上げたのは一年前
あれから はや ひととせがうつろい
月が見守っていた二つの家にもさざ波のような変化があった
あの小品を書いた数日後
三階家の老婦人が挨拶に来られた
―息子が東京から戻ってくるので、よろしくお願いします。
咄嗟に ある風景が脳裏をよぎった
眼前の老婦人がまだ今の私と同じ年くらいの頃
いつもあの家は彼女の子どもたちの歓声に包まれて輝いていた
また あの賑やかな日々が静かな三階家に戻ってくるのだ
何故か 自分まで気持ちが弾んだ
しかし 老婦人は続けた
―息子夫婦には子どもがいないので、飼い猫を連れて帰りますから、悪さをすることがあるかもしれません。
半月後 どうやら息子さん夫婦は引っ越してきたらしいのだが
あれから一年経った今も
若い夫婦がいる気配は殆どなく
あの家は変わらず どこか哀しみを秘めた静謐さに包まれている
ただ一度だけ そのお宅から若い女性の笑い声が聞こえたことがある
そのときは何かホッとしたような妙な気持ちになったものだった
一年の月日がめぐっても
大きな変化は何もない
隣り合って建つ二階家の方は相変わらず無人で
二つの大きな建物は寄り添い合っている
まるで互いにいたわり合っているかのように
やや欠けた月は静かに二つの建物を見守っているだけだ
そして 私も あの日と変わらず 今 ここにいる
とりとめもないことを考えつつ月を見上げる私を
月はひっそりと笑っているようだ
今年もまた冬が近くなった
去年の今頃より数が格段に増えた朝顔が
二つの家の壁を覆い 朝の冷たさを増した風に揺れている
☆『手のひらの中の柿』
もう樹齢幾十年になるのであろう巨木に無数の実がなっている
ある穏やかな秋の夕暮れには
艶やかに色づいたそれらは
あたかも刻一刻と意を変えるオレンジ色の宝石のようにも見え
私の心まで温かな色に染め上げる
今朝 洗面所の小窓越しにかいま見た風景にハッとした
いつしか温もりのある夕陽の色を宿していた柿たちは
あるものは萎み あるものは茶色に変じて
無残に様変わりしていた。
そういえば 毎年秋のたけなわになると知らない人が訪ねてきて
こんなことを言う
―通りすがりに柿がいっぱいなっているのを見ました。干し柿にしたいので、頂いても良いでしょうか?
毎年 訪ねてくる人は違う
たまには顔見しりの近所の人のこともあった
今年は貰ってくれる人もないままに
柿たちは盛りを過ぎてしまったのだ
ひとたび この世に生まれたならば
誰かの役に立ちたい 必要とされたいと願うのは当たり前のことだろう
たとえ人であろうと柿であろうと
それでも そぼ降る雨に打たれながらも
必死で樹にしがみついている柿たちは
誇りをもって自分の生き方を貫こうとしているようだ
冷たい晩秋の雨に濡れながら
柿たちは何を想っているのだろう
私も雨に濡れることを厭わず
柿の樹に近づいて手近な枝に手を伸ばす
一つだけもいだ実はやわらかすぎて
少し力をこめただけで くしゃりと手の中で潰れてしまいそうだ
何か限りなく尊いものを手にしているような気がして
そっと手のひらの熟しすぎた柿を人差し指で撫でた
☆「空想の中の現実~晩秋の金魚~」
かすかな晩秋の風が水面をそっと撫でて通り過ぎる
まるで絹のハンカチで嬰児のやわらかな頬に優しく触れるように
見ていた私の心も揺れる
ふるふる ふるふる
透き通った水晶のような水の上
一枚だけ浮かんでいた紅い木の葉が揺れる揺れる
ゆらゆら ゆらゆら
真っ赤に色づいた蔦の葉は
真夏に透明な池の中で泳ぐ金魚のように
ひらひら ひらひら
小さな池の中を舞うように踊る
肌を掠めてゆくのは冷たい木枯らし
心の中を吹き過ぎるのは 生温い夏の風
ふっと現に引き戻される一瞬
瞼で鮮やかに舞っていた紅い金魚は
薄ら寒い風に翻弄される木の葉に戻っていた
魔法が解けた後
周囲にひろがるのは ただ隣の空き家の壁を這う紅い蔦ばかり
☆「ある町~去る人、来る人、戻る人~」
あの人はどこにいったのか
この人は今どうしているのだろう
そんなことを時々考える
かつて自分が暮らしていた町をふと訪れてみた時
懐かしい隣人たちは元気でいるだろうか
相変わらず良い仕事をしているに違いないと
少しの淋しさと強い確信と期待を持ちながら
ゆっくりと歩いたことがあった
つば広の帽子を目深にかぶり マスクで顔を覆って
まったくの別人であるかのように
自分がどこに棲んでいるのか
そして どんな仕事をしているのか
かつては気になって仕方ないときもあった
自分と隣人を比べては溜息をつき
自分が取るに足りない小さな人間だと落ち込み
妬みさえ憶えるようになった日々
これではいけないと悟った
このままでは自分はどんどん嫌な人間になる
ある夜 ひっそりと長年住み慣れた町から逃げ出した
まるで夜逃げをする人のように
一年余りが過ぎて
懐かしい町に帰ってきた
離れている間に気づいたことがある
どんな仕事をしているか
成功しているかどうかよりも
もっと大切なものがこの世の中にはあると
仕事をどれだけ愛しているか
どれだけ集中して取り組んでいるか
長年 探し求めていた応えは自分の中にあった
他人と比べても見つかるものではなかった
今 私はかつての故郷に戻り
穏やかな日々を送っている
自分なりの仕事が自分のペースでできる
そんな今がいちばん幸せだ
かつてここで暮らしていた私だと知りながら
皆 気づかない新しい隣人として接してくれる
慣れ親しんだ町で「新しい私」として暮らすのも悪くない
あの人はどうしているのだろうと考えるのは
そんなときかもしれない
そして かつて夜逃げのように引っ越していった私について
作品名:詩集【紡ぎ詩Ⅲ】 ~恵想花~ 作家名:東 めぐみ