詩集【紡ぎ詩Ⅲ】 ~恵想花~
気温はとうに三十度を超えている。ホームには幾つかの椅子があり、簡素な屋根もついているが、この暑さを幾ばくかは防いでくれるものの、足下からは熱風が舞い上がってくる。こんなことなら、多少恥ずかしくとも最寄り駅で大人しく待って直通電車に乗れば良かった。後悔しても既に遅い。
大きな溜息をついたその時、ハッとした。眼前に伸びた線路の上をトンボが二匹、仲良く戯れるように飛んでいる。午後の陽射しが真っすぐに続くレールを銀色に鈍く光らせ、二匹のトンボたちはそのすぐ上を舞っていた。
何とも心和む光景に、頬が自然と緩む。すると、サァーッと涼やかな風が私の側を吹き抜けていった。切ったばかりの短くなった髪がわずかに暑さを孕んだ風に揺れる。
私はベンチに座り、バッグから持参した本を取り出した。本のページをめくっていると、今度はジージーと夏虫の声が響いてくる。駅の周囲は田んぼが多く、私の背後に青々とした田園風景が広がっている。ふと見れば、ベンチの背後の柵の向こうには、グラジオラスらしい夏の花がたくさん群れ咲いていた。鮮やかな黄色の花が夏の太陽に負けないくらい眩しい。
もし途中下車することがなければ、当然ながら、これらの素敵な風景を見ることはできなかった。寄り道というと、無駄脚を踏むというイメージがある。けれど、時には寄り道も良いものだと、明るい陽射しの下で咲き誇る花たちを眺めながら思った。
三十分後、私は再び車中の人となっていた。ほんの些細な何気ない光景、ささやかな出来事だ。しかし、それが私には、その日、神様から貰ったサプライズプレゼントのように思えてならなかった。
☆『原初の焔』
我が寺の夏祭りでは毎年、護摩供養が行われる
檀家様だけでなく、広く一般のたくさんの信者の方々の祈りをこめた護摩木を
心をこめて供養させていただく
燃え盛る護摩の焔を眺めていると
まさに「魅入られる」という表現がふさわしい気持ちになる
どのように例えたら良いのだろう
敬虔な祈りにも似た心情か
どれだけ文明が発達しようと
この世には神秘が残されている
護摩の焔は折々に降臨する仏様の形を取って現れるという
多くは不動明王や観音菩薩らしい
私自身 毎年 焔を撮影してみても
その折々で焔の形は違うし
まさに「仏」としか見えない不思議な形をしたものが写る
焔を「紅蓮」と例える言葉がある
祈りの焔とはまた違って
女性的な言うなれば咲き誇る花を彷彿とさせる表現だ
或いは焔から私がイメージするのは「情熱」や「情念」
やはり熱く燃え盛るものと関係している
焔といっても人それぞれに思い描くものは違うだろう
祈りにも通ずる焔
人が奥底に秘めた熱く烈しい想いに通ずる焔
祈りの焔は静謐ながら
やはり内側には多くの人の願いが集まった膨大なエネルギーを感じる
この世で初めて焔を見た人類は何を想い感じたのか
恐らくは彼等が感じたに違いない畏怖を
今 はるか後世の文明の時代に生きる私たちも感じる
それが焔が原初から私たちに与え続ける影響力なのかもしれない
☆『晩夏の貴婦人』
車から降り立った瞬間
ふと陽が翳った
見上げれば先刻まで燦々と輝いていた夏の太陽は姿かたちもなく
頭上を覆っているのは一面のグレーの雲だけ
その時 視線が吸い寄せられるように足下にいったのは
偶然なのか必然なのか
私はハッと目を奪われた
淡いピンクの百合が凛として咲いている
まるで背筋をしゃんと伸ばした誇り高き貴婦人のようではないか
立秋は過ぎても名ばかりの〝秋〟
八月下旬の日中 炎暑の中
その花は真っすぐ前だけを見つめて花ひらいている
思わず 花の見つめている方向を振り返らずにはいられなかったほど
百合はただ一途に前方を見据えている
大抵の人は通り過ぎてしまうに違いない庭の一隅
花の咲いているその一角だけ小さな灯りを点したように見えるのは
薄曇りで太陽が閉ざされていて
周囲がモノクロに沈み込んでいるからなのかもしれない
それでも 私には たおかやな花たちが群れ咲いている一角は
本当に柔らかな光が点っているように見えた
彼方で雷が低く唸る夏の夕方
半月ぶりの雨への期待を感じながら
瞳を閉じる
眼裏には今も相変わらず前を向いて咲いているだろう花たちが
鮮やかな残像となって揺れている
久方ぶりの恵みの雨は
あのひそやかに笑んでいる貴婦人たちにも惜しみな降り注ぐことだろう
『実りの瞬間(とき)』
数日前の猛暑が夢のように
突然 秋は訪れる
まるで潮が引いてゆくかのように
潔く夏は終わりを告げていった
早朝は肌寒ささえ感じる九月初旬
ふと庭の片隅に視線が引き寄せられた
艶やかな蒼い小さな実は
十二月の聖誕祭にテーブルを飾る芳醇に熟れた青りんごを思わせる
そっと壊れ物のように触れると
すべすべとした嬰児(みどりご)の肌のような手触りがした
この実がポンと割れて 中から小さな小さな黒い種が飛び出せば
大地に舞い降り ひっそりと息づき
やがて私の大好きな紅椿を咲かせることだろう
一つの種が芽吹き 成長し
更には樹になり花開き実りを迎えるまで
どれほどの気の遠くなるような年月を必要とするのか思いも及ばない
けれど 種をまかなければ花は咲かないし実もならない
私の心の奥にまいた種は
あとどれくらいで実を付けるのか
無理をしなくても良い
背伸びする必要もない
ただ一日一日を精一杯過ごし自分にできることをやるだけ
小さな愛らしい実を撫でながら想いを馳せる
いつか〝夢〟という小さな種が大きな実を実らせるその瞬間を
☆「生命絶唱~九月の蝉~」
突如としてツクツクボーシが鳴き始めた
少し離れた裏庭から聞こえる啼き声は聞き慣れたものだ
ツクツク ツクツク ツクツクホーシ
けれど 聞き慣れているようで少し違う
弱々しいといえば あまりにありきたりすぎるが
今にも途絶えそうで 声を振り絞っているような鳴き方は
まさに自らの生命の長さを知っているようにも思える
ツクツク ツクツクツクツクホーシ
太陽が燃える炎暑の真夏には
たくさんの仲間たちが煩いほどに声を揃えて
余計に暑さを感じさせられるようで辟易していたのに
秋も深まりつつある9月下旬に一匹だけ
生命の限りに啼こうとする蝉の存在は何故かとても愛おしい
生まれ出る時期(とき)を間違えたのか
ツクツク ツクツクホーシ
哀しげに声を涸らすように叫ぶ蜩は本当に「泣いて」いるようだ
泣くが良い
彼は泣きたいだけ泣いて
その生命一杯に啼いて生命の最後の輝きを放 つのだろう
ツクツク ツクツクホーシ
ツクツク ツクツクホーシ
孤独に散りゆく生命の賛歌を歌い上げるツクツクボーシと共に楽を奏でるように
秋草の陰にいる鈴虫が鳴き始めた
☆「宝箱~刻の止まった部屋~」
その部屋の扉を開けた瞬間
想い出がどっと押し寄せる
刻が止まったままの部屋
ゆっくりと周囲を見渡せば あちこちに家族の歴史を刻んだ写真が置かれている
使わなくなって久しいこの部屋は
かつて私と子どもが幼い頃 一緒に過ごしていた
子どもが泣けば真夜中でも起きて母乳を呑ませ
なかなか寝付かない子どもに絵本を読み聞かせたりした
写真の数以上の膨大な想い出がここにはある
作品名:詩集【紡ぎ詩Ⅲ】 ~恵想花~ 作家名:東 めぐみ