無条件降伏からの歳月
二人は互いに謙遜しあっている。研究の成果は他人が評価するもので自分から誇張するものではないといった雰囲気が漂っていてさわやかだった。会話の中にエスプリをはめ込んだように語り合う二人は信頼という字の恋人である。二人は互いに尊敬し合い心を結び合うように共通のテーマの中に歩を運んでいた。そのトンネルは出口が無い無限の空洞かもしれないが、二人はその先に光が差すことを疑わずに歩んでいるのではないだろうか。政治と宗教は社交的会話ではタブーであるが、二人は自らの心の問題として真剣に探索している。
狭いアパートだけれど二人にとっては心の広い空間である。ラブはイギリスから、ジャックはアメリカからの移住者の子孫であって、独仏中心の「古いヨーロッパ」にはある程度中立的な見方をしているようだった。少なくとも熱狂的なパリジェンヌでもパリジャンでもない。
「アントレーヌは悲劇のように死んだのよ。彼女はフランスの栄光は市民革命に忠実に生きることだと信じていたブルジョアジーの末裔だったの。だけど、労働者階級や移民に親近感を持って彼らの主張と行動に味方したでしょう。ジャックはそのことを知っているはずね。労働争議が反政府運動に発展したとき、彼女の家系や親族につながる政府側の要人との交渉に彼女は利用されたのよ。彼女の努力で労働側は有利な条件を勝ち取ったの。だけど争議の首謀者は彼女の出自を嫌って、彼女を疎外しただけではなく、無実の理由をつけて裏切者に仕立て部下に命じて暗殺したのよ。彼女の死に疑問を持った多くの仲間達は、その後、首謀者の陰謀を暴いて彼を追放し、アントレーヌの名誉を回復したのよ。彼女の命日には今でも墓参者が絶えないの。ジャックはどうして墓参しなかったのよ。ワインで乾杯が良いなんて何故言うのよ」
「アントレーヌを最後まで支持したのは農民だった。彼女の生家であるボワール家は広大な農地を所有する地主階級だったが、当時の搾取農業に反対して、農民の労働負担を軽減するために農耕具の機械化を推進したり収穫に応じて賃金を割り増しする成果報酬を採用したり、農民を尊重する稀な存在だった。その家系で育ったことがアントレーヌの成長に影響したのだね。彼女が労働者や移民を圧政から救いたいという正義感はそこから生まれたのだろう。幼い頃からボワール家の葡萄園で育ったアントレーヌは農民から慕われていたのだ。彼女の墓には葡萄を捧げ、葡萄の血であるワインで乾杯するのが彼女に対する最高の敬意の表明だろう。ラブは同意してくれるよね」
二人は互いに顔を見合わせて笑った。アントレーヌについて長い会話をするなんて考えてもいなかったことだったから、偶然とは言いながら、アントレーヌの霊が二人の前に現われたような不思議な気分になっている。その気分がどこからやってくるのかはわからないが、多分、会話が運んできたのだろうと納得し合っていた。会話には想像力を引き出す力があるが、それを超えて新しい意味を創造する魔性のような力も潜んでいる。二人はアントレーヌの事件を通して自分達の生き方を引き出そうとしているかのようであった。
「アントレーヌは自分の価値観のために死んだのよ」
「世間を疑わなかった純粋さが落とし穴になったのだ」
「猜疑心と裏切りの渦に巻き込まれたのね」
「アントレーヌは聖者として復活したのだよ」
ラブとジャックはヨーロッパの重苦しさを肌に感じながら生きている。二人の研究生活の中でそれが増幅されているのだ。古建築や古文書や宗教史などの研究に没頭していると時間が過去へ過去へと遡って行く。ヨーロッパの原点を捜し求めるように二人は旅を続けている。
「文明と文化が相互に作用しあって時代がつくられるのね」
「人間がその過程で変わって行くのだ。人間の進歩とはそのことだ」
「そうね。人種や民族の違いを克服して拡大したのが世界なのよ」
「人種差別や民族浄化は根絶していないがね」
「奴隷制度や人種隔離はなくなっているでしょう」
「階級制度はインドのカースト制のように残っているね」
「それでも、人類は無差別、平等の方向に進む方向性を持っていると思うの」
「競争社会には格差と差別を生む要因が山ほどあるよ」
「身分社会は生まれながらの差別だけれど競争社会は個人の能力次第でしょう」
「経済力が身分に取って代わっている。機会均等が課題だね」
二人の会話は現実の壁に突き当たっている。それは、グローバリズムに象徴される証券金融資本の作り出している新しい障害なのだ。世界の国家はネットワーク社会の中で急速に溶解しようとしている。どの国家も主権国家として世界を支配できない。「見えざる手」のような金融ネットワークは国民国家を超えた存在に成長して世界を脅かしている。その理念的武器は「自由」と「民主主義」だ。実戦配備は「情報通信技術」と「宇宙的破壊兵器」だからこれを主導しているアメリカの世界進出が世界の勢力圏地図を塗り替えている。
ラブとジャックのヨーロッパ観は、この趨勢にヨーロッパ人がどう立ち向うのかを見極めることにある。コミュニズムの影響を色濃く受けたヨーロッパは社会主義の道をたどってきたが、その根源は王侯支配に対抗した市民革命とイギリスの産業革命の伝播にある。アンシャン・レジーム(絶対王政)を打倒したブルジョアジーが共和制の中で新しい敵である労農階級と対峙した過程こそが現代フランスの姿なのだと二人は振り返っている。決定的だったのは第二次世界大戦でヒトラーに破れ、アメリカ軍の「ノルマンジー半島上陸」に助けられたことだ。以後、アメリカはヨーロッパの救世主の地位を固めてきた。戦後はアメリカを盟主とするNATO軍とヨーロッパ主体の西欧軍事同盟軍がヨーロッパをまもってきたが、イラク戦勃発後、独仏と米の関係には亀裂が生じている。米空軍基地が東アジアにも設営されてアメリカのプレゼンスは留まるところを知らないかのようだ。二人はこの現実を快く思っていない。
「ヨーロッパの未来をラブはどう思っている。EUに加盟した東欧十カ国はアメリカの勢力圏だろう。古いヨーロッパとブッシュに揶揄された独仏とは仲良くやれるのかな」
「ソ連圏に組み入れられていたこれらの国と民族にとっては白馬の騎士だったかもね」
「トルコの加盟が最大の問題だ。イスラム圏だぞ」
「オスマントルコの昔を思い出すのでしょう」
「アラビアのロレンスがよみがえってくるよ」
「アラブの王政を覆そうと思っているのなら、アメリカは味方を失うでしょうよ」
「市民は味方するかもしれないね。アメリカは日本で成功したようだ」
「日本人には宗教的抵抗が無かったからでしょう」
「ヨーロッパやアメリカを模倣する心が定着しているのだ」
「明治期以後のことでしょう。それ以前は中国や朝鮮の模倣だったのじゃないかしら」
「固有の文化もあったのじゃないか。神道と武士道のようにね」
「無条件降伏してから日本はアメリカに次ぐ市場経済国家になったのね」
「国防はアメリカとの軍事同盟に頼っているので、保護国といわれているね」
「日本の政治や行政にアメリカが年次要求を突きつけているのでしょう」
「それを消化するのが日本の政治らしい」
「アラブやイラクではそうはいかないでしょう」
作品名:無条件降伏からの歳月 作家名:佐武寛