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無条件降伏からの歳月

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「そうよ、共和制で市民がレーゾン・デートルをもったのよ」
「アパートの住人はそれ以来此処に共和国を作っている」
「自由・平等それに博愛をモットーにしているのでしょう」
「何事も契約だよ。王の統治に代わって市民契約が社会をつくるのだ」
「そうね、それが無ければアパートは無法地帯になるものね」
「移民も入居しているからね」
「移民は大切な労働力だからめったなこと言っちゃ駄目よ」

 二人は狭い階段を上って部屋に入る。2ベッドルーム、ダイニング・キッチン、リビング・ルーム一つの狭い空間に閉じ込められたように二人は吸い込まれた。壁紙だけが新しく調度品はアンティークである。ラブは新しいものに興味があるタイプだが、ジャックは古風なものが好きである。この部屋は二人が共同で使っている隠れ家であった。二人は政治活動や労働争議の地下運動をやっているのではなくて、ボランティアの市民運動に参加している平凡な市民である。

「このアパートに差別は無い。だが移民が一人増えると白人は二人出てゆく」
「それを食い止めるのがわたしたちの役割でしょう」
「市民権運動という大袈裟なものじゃなくて、融和を心に植え付けたいのだ」
「社会参加の機会を平等にしないといけないわね」
「低賃金と失業しかないという現状が問題なのだ」
「イスラムや異教徒に対する警戒心が強くなったのよね」
「嫌悪と蔑視が混ざってもいるよ」
「それはね、白人の失業者も増えてきたからでしょう」
「肌の色や生活習慣が違っていることも影響しているかもね」
「そんなこと言っちゃ駄目よ。ジャックは案外古いのね」

 ラブはコーヒー・ポットを傾けながらジャックと話している。極彩色の花絵のカップに注がれたコーヒーの香りが話しに和みを漂わせていた。ジャックは建築技師で、古建築と新しい建物が調和した街づくりが彼のテーマである。歴史的建造物を壊さないで新しい建築物を街に付加し、歴史的遺産にも現代の息吹を与えることがジャックの都市計画の理想だった。ラブは文化人類学を専攻し、異文化の共生をテーマにしている。その中でももっとも関心を持っているのは宗教和解である。ヨーロッパのすべての社会問題の根源は宗教争いにあるからこれを解決できなければ永遠の平和などは望めないというのがラブの信念にもなっている。

「異教徒との共生をテーマにフォーラムを作りたいの」
「サラエボの悲劇は繰り返したくないというのだろう」
「この国のイスラム教徒は増え続けているのよ」
「キリスト教文化と共生できないと戦乱になるというのか」
「同化政策には限界があるでしょう」
「固有の文化を認めて共生するのが賢明だとラブは思ってるのか」
「教化すれば若い世代には共同体意識が生まれるでしょうよ」
「経済的自立支援が先だろう」
「宗教的共存を認める寛容の精神が無ければ根本的解決にならないわよ」

 二人の議論はある程度平行線だったが、「多様性の中の統一」という大統領の方針を認め合うことで決着した。この道は険しいと互いに認め合いながら、だからこそ未来のために挑戦すべきだということで意見が一致する。
 
「窓を閉め切ったままだったわ。夏だというのに」
「ラブが議論に熱中していたから外の風に触れたくなかったのだろう」
「開けましょう、川の流れが見えるわよ」
「このあたりは湿地帯で、騎馬が駆け抜けた戦乱の時代があった」
「ジャックに騎士の亡霊が取り憑いているかもしれない」
「ラブにも悲劇の王妃が取り憑いているね」
「歴史の回想は後世の人間の現実を縛るのよ」
「社会的DNAだ。凱旋門の栄光を引きずっている」
「植民地にされた地域から移民が殺到してこの国を変えているのは皮肉じゃないの」
「征服者が払っている代償だね」

 二人は歴史の亡霊を引きずっている現代にわれわれは翻弄されているのだと、自分たちの生き方が過去に縛られていることを認め合いながら、その呪縛から解放されるためにどうすべきかいう議論まで進んで、未来志向なんていう政治家のごまかしを嫌悪し、幾世代もの歴史の血統に忠実な人生しか過ごしえないのだと開き直って、それが呪縛ではなくてレーゾン・デートルだということを確認する。自分たちは人類史の一つの通過点を同世代と呼んで生存しそれが後世の人類に引き継がれる歴史上の現在に生きている個体に過ぎないと認めることで仮想の満足を得たように微笑んでいた。
 ジャックはアルバイトで名所旧跡の観光案内もする。彼は寺院や王宮などの古建築や旧市街といわれる地域の観光案内が専門である。彼の案内は、ガイドブックにある内容をわざと避けたように、書かれていない故事や建築の詳細な説明が中心である。それは真実を知らせたいという彼の熱意に発していて、案内というよりは教育のようであった。それが受けてガイド協会からの指名が多く入って来る。

「ジャックの説明は自分の楽しみをお客に伝えているようだって協会で評判よ」
「あの連中は僕をうまく使おうとしているんだ。僕を満足させてね」
「歴史的建造物にジャックの価値観を添えているのね」
「建築史をフォローしながらその時代の美意識に焦点を置いているのだ」
「わたしの専攻にも共通するものがあるのよ、宗教観が建物に凝縮しているからね」
「ヨーロッパは多様性の中の統一を求めるべきだが、その核心はキリスト教文化だよ」
「そうね、キリスト教文化が生活習慣や風景をつくっている。これは覆せないでしょう」
「政治と宗教の分離という共和制市民社会のテーゼは守り抜かねばならないがね」
「それを破壊する動きがあるからめんどうなのよ。福音派の台頭のようにね」
「イスラムの神権政治と真っ向から対立しているのはユダヤ教徒だ」

 二人はここで大きなため息をつく。特にラブの失望は顔に出ている。パレスチナの平和が無ければヨーロッパは安定しない。ラブは世界の宗教圏地図を思い浮かべているようであった。国家の境界を示す地図は国民支配の結界を示しているが、これを超えて宗教圏は広がっている。宗教戦争が起きれば国家は無力だということを実感させるような宗教的共同体が存在していることにラブは肌寒さを感じていた。

「宗教に国境は無いのだが、国境を越えない宗教もある。それが土俗の信仰だろう」
「そうね、日本の神道などはそうじゃないかしら、民族統一の信仰になっているようね」
「仏教はインドから伝来した創唱宗教だが、神道は民族宗教で教義の無い祭祀信仰だよ」
「神仏習合の文化が日本の特徴ね。神社仏閣が共存している不思議な国よ」
「明治期に国家神道を興隆させ廃仏毀釈をやったね。宗教を国家統一に利用した訳だ」
「でも、国民は仏教を捨てなかったのでしょう」
「連合国軍の指令で国家神道は廃止されたが神社神道は復活しているね」
「信教の自由が保証されたからでしょう、政教は分離されたけれど」
「ラブは日仏文化交流のメンバーだから僕より詳しいはずだ」
「ジャックも日本に留学したでしょう」
「歴史的建造物の保存調査に参加したが宗教のことはラブのように詳しくは無いよ」
作品名:無条件降伏からの歳月 作家名:佐武寛