無条件降伏からの歳月
戦時中の自分とは別な自分が居る。お国のためにという強迫が消えて自分を取り戻していたのだ。平和憲法は当然として受け入れたし違和感もなかった。戦争などとんでもないという気持で前向きに生きようとしている。国家に強迫されて生きてきたことがウソのようだった。旧制の高等学校に入学した仲間には軍隊経験者が多くいた。気分は開放ムードでやりたいことをやろうという荒くれが神妙に勉強を始めたのである。敗戦を跳ね返す気概のようなものが沸いていた。
当時は政治も今のように保守化していなくて社会党内閣も生まれている。敗戦の反動だったんだろう。だが我々は思想を信じなくなっていた。経済を立て直すことが一番の関心事だったのだ。それも高尚な精神からではない。連合国がこの国に残した道は経済だけだったということを受けている。国旗も国歌も戦時の悪夢を思い出させるので忌避された。それはやるせない思いからであって、イデオロギー的なものとは無縁だったが、後日、特定の政治思想と結びつける風潮も現われた。だが、国旗や国歌を無視する国民にはなりたくない。戦争を否定する心が国家のシンボルを否定することに転化するのは正しい戦争体験の帰結だとは思われない。
自分の戦争体験は少年兵としてのものであるが、それだけに心の奥に深く突き刺さっている。所属した部隊が独立混成砲兵旅団で米軍の本土上陸を想定したものであったことが除隊後にわかった。兵は何も知らされずに身を挺して戦うことだけが要求されていたのである。当時は女子も挺身隊に取られて軍需工場で働かされた。米の配給は一日二合三勺でリンゴは医者の証明が無ければ買えなかった。貴金属、鍋釜などの金属類まで強制供出させられた。寺の釣鐘までも取り上げられる。日常生活に使う油紙も無くなりリパー紙というカサカサのものしかなかった。国旗の布地はスフになっている。多くの家は空襲で焼かれた。軍隊でのメシは雑炊だった。戦中と戦後の記憶が重なって出てくる。
国の指導者が謝った判断をしたばかりに無謀な戦争を始め、国民の命を奪い、国を滅ぼした。だがそれが軍閥から日本人が解放される結果を生んだ。そのお蔭で今日がある。二度と戦争してはならないという覚悟が戦時中を生き抜いたものにはある。戦後生まれの無戦世代にもこの覚悟は伝えねばならない。産軍複合体が世界的に暗躍している現在であればこそなおさらである。イラク戦争でも明らかになったが戦争の大義なんてものはいい加減なものである。為政者の言うことに騙されてはいけない。テロも許せないが現実に起きている。これを防ぐために戦争を仕掛ければ相手の見えない敵と戦うことになる。テロを防ぐのは貧困をなくすことが最上である。戦争から得た日本人の覚悟は世界の貧困をなくし平和を維持することだ。>
真理は、父が心の奥深くに仕舞っていたものを打ち明けたように感じた。これを兄夫婦にも見せたのだろうか、それを尋ねてみたかった。仲良くしていれば見せているはずだ。 コメントを求めたかもしれない。真理は急に思い立ったように父・三平に電話を架けた。
「エッセーもらったよ。ボロボロの軍隊やったのね。今まで全然、話しに聞いたことも無かった。昔のことは何も言わなかったのになぜ急に書き出したのよ。ちょっと心配ね。体の具合でも悪くなったの」
「やらんことやったから心配したのか。いたって元気やが、そろそろ人生の店じまいが近こうなってるから書き残す気になったんや。戦争はあほらしいことやということを孫にも伝えたいからね」
「気が弱くなんたんやね。昔はそんな人や無かった。娘のわたしにも未来に向かって歩くのが人生やって言ってたでしょう。兄は人に恥じない男に成れって言うお父さんを敬遠していたよ」
「そういうこともあったかなあ。未来といえば、僕の未来はあの世なんだ。この世のことの帳締めをして白無垢で出掛ける準備にかからにゃいかん年よ」
「やっぱり、そんなこと思ってるの。まだはやいよ。これからも元気で長生きしないと帳尻が合わないでしょう」
「そうやな、ボチボチ、向こうに行こう。それはそうと、真理は直樹君と仲良くやっとるか。親が不仲やったら子供がかわいそうやで」
「心配せんでもいいわ。主人も子供もわたしの言うことよう聞いてくれる」
「直樹君は、ようできとるんやな。平介と嫁のバーバラはお互いに自己主張しとる。せやさかいに、孫娘のリリー(百合)もジョージ(譲治)もわが道を行くようにふるまってるよ。あれはあれで良いんだろう。僕は僕なりに好きにやってるからサバサバしてる。気楽な老後だから安心してくれていいよ」
「お互いに干渉しなければいいってことね」
「そういうこっちゃ。テロも戦争も干渉からおきとるんや。家の中でも干渉しあったら同じことが起きるんやろう。夫婦が戦争したら子供がテロするのとちがうか」
「えらいとこに、話しが飛ぶんやねえ。うちは平和やから安心しといて。でも、この続きがあったら、また書いて送ってよ」
「興味持ってくれたか、また何か書いたら真理に読んでもらうよ」
父・三平が電話の向こうから話している声には自分に対する信頼が篭っていると真理はジーンと胸に来る思いで聴いていた。
四
この年の九月には、バーバラ、リリー、ジョージが揃ってアメリカに渡航し、シアトルのバーバラの実家で暮らすことになった。子供の教育はアメリカでというバーバラの想いと子供たちの希望とが合致したのである。この話しを聞いたとき、真理は、バーバラは日本に残るべきだと説得したのだが、平介がバーバラの好きなようにさせると言ったので無駄だった。平介は自分も後から追いかけて渡米するつもりでいたようだった。だが思うようにはならなくて、今も父・三平と二人で暮している。
真理は、父と兄が上手くいっているかどうか心配になって、ある日電話すると、「平介は逆単身赴任だよ。バーバラや子供から解放されてかえって良かったのじゃないか、自分を取り戻すチャンスじゃないかね」と言う父の声が返ってきた。その言葉の裏には、父が兄・平介を不甲斐ない奴だと思っているらしいニュアンスがある。その原因は、兄・平介が家庭の主導権を持っていないことにあるらしい。父は平素、兄の家庭には干渉しないと言いながら、心のなかでは苛々していると、真理は心の裏表を見たようだった。数日後、真理は父を慰めるために手紙を書いた。最近の世相に対する自分の感想を綴ったものである。
<このごろ、日本人は、いじけていないでしょうか。八方ふさがりのような閉塞感に悩まされていないでしょうか。経済は不調だし、外交は手詰まりだし、戦後始めて、日本の自衛隊がイラクに派兵されたし、北朝鮮とは不穏な関係が続いているし、中国とも「靖国」不和がしっこっているし、憂鬱であっても不思議ではない。
このように、大向こうを唸らせるような問題だけではなくて、身近な食の安全が脅かされています。牛BSE、鶏インフレンザー、鯉ヘルペス、豚コレラと、戦々恐々させられていますが、その不安を拡大しているのが、商人道徳の退廃でしょう。
作品名:無条件降伏からの歳月 作家名:佐武寛