かざぐるま
香奈は淳の様子から当分は帰ってこないと予感している。この子は小さいときから自分の思うとおりにならないとダダをこね続けた。気に入ったことは一日中でもやっていた。自分がやると決めたことはどんなに難しくてもやり遂げた。私はそれが嬉しくて淳のわがままを許してきた。それがいけなかったのか、思いやりの無い人間になってしまったと、淳を見ながら香奈は今、自分を責めている。
淳は母親の思いも知らないで出掛けようとしている。
「当分帰らないから、あとは頼んだよ。八重が戻ってきて謝ったら戻ってくる」
淳は言い捨てて、折角、母親が用意してくれた夕食もとらずにそそくさと出て行った。香奈はその後姿を淋しそうな顔で見送っている。いつ出てきたのか一郎が猫のキャッシーを腕に抱いて香奈の後ろに立っていた。
六
この後、香奈はこの家に移り住むことになったので夫の俊介とは別居である。老夫婦が別居するのはお互いに何かと不便だし、突然、身体の具合が悪くなったりすると心配でもあるが、俊介はまだまだ大丈夫だから僕のことは気にしないでというので香奈は思い切ってこちらに来た。毎日通ってくるのは高齢者にはきつすぎるからである。
香奈と暮らすようになってからというもの美樹はすっかり大人びてきた。一郎の勉強を見てやるし叱りもする。八重よりも厳格なくらいである。
「美樹は大学受験で忙しいのだから、一郎の世話は私に任せておけばいいのよ」
と、香奈が美樹に言うと、
「私のことは心配しないで頂戴、志望校もちゃんと決めてあるし、合格の自信もあるの。母さんのような弱い女にはなりたくないから男を頼りにする生き方はしないと決めたの」
と、美樹はキッパリした口調で言い返した。
香奈は美樹がいじらしくて慰めてやりたいが、八重のことには触れないでいた。弟の面倒を見ている姿を見ていると涙が出てくる。普通の子ならこんなとき、塞ぎこむか、やっ気になって母親を捜そうとするか、とても穏やかでは居れないだろうに、美樹は自分の気持を抑えている。美樹の心の中での葛藤を思うと香奈は気持が重くなる。しかし、自分が暗い顔をしていては折角の美樹の覚悟を挫くことになると思い香奈は出来るだけ明るく振舞っている。だが美樹のおんな心の怪しさまでは見通せていない。
美樹が隠し持っている心の秘密は思春期の彼女には刺激のきつすぎるものだった。あの場面を見た後、美樹は男に対する嫌悪感に襲われたのか、親しくしていた男友達との付き合いを避けている。学校からも寄り道しないでまっすぐ帰ってくるようになった。帰宅すると一郎の遊び相手もする。遊びの最中に一郎が、
「母さんは戻ってこないのか」
と淋しそうに尋ねると美樹は、
「一郎が賢くしておれば戻ってくる」
と答えてやっている。
香奈はそれを見ているのが辛い。美樹も心のうちでは母の八重を呼んでいるのだと思った。
淳とは連絡が取れていない。会社に聞けばいいのだが淳のためにはそういうことをしないほうがいいと香奈は躊躇している。そんなことをして家庭の内紛が会社にばれれば、淳は会社におれなくなるかもしれない、それだけは避けてやりたいと淳から連絡が来るまで待つことにしていた。その気持を夫の俊介に打ち明けたとき、
「香奈がいつまでも淳をかばうからダメなんだ。八重の身にもなってやらないとかわいそうじゃないか。美樹や一郎だって、両親がこんなことではまともに育たないだろう。僕が会社に電話してもいい。会社のためにも淳のような人間はためにならん。家庭を守れないでどうして会社の役に立つんだ」
と、香奈をなじるように言った。
「私ばかり責めないでよ。あんたも父親として責任があるでしょう。淳はここで業績を上げれば取締役にもなれるって言っていたわ。この大切なときに八重が家出するからいけないのよ。夫を守るのが妻じゃないですか。私はあんたを守り続けてきたのよ。だからあんたは自分の殻に閉じこもって生きてこられたのでしょ。淳はそういうあんたが嫌だった。淳があんたとは正反対の生き方をするようになったのはそのためですよ」
香奈はこれまで心に溜まっていた思いが堰を切って流れ出したように喋った。淳のことで俊介が自分と淳を非難したことに激怒したのだ。勝気な香奈にとって俊介は不甲斐ない夫である。そのためにどれだけ自分が苦労してきたか、夫とは諦めて寄り添ってきたが、子の淳にはなんとしても出世してもらいたかった。そのために一生をかけてきた思いが夫の俊介にはわかってもらえないばかりか、育て方が悪かったからだとまで非難されるともう黙って居れなかった。
俊介は反論しないでテレビを見ている。これまでの生活の中で香奈とは何度も意見の違いがあったが、自分の意見を言った後、香奈が反撃するように喋ったときはそれを聞くだけで口論はしない。そのパターンを今日も繰り返している。香奈はそれで更に機嫌を悪くするのだが、俊介が向かってこないから、
「あんたは私を無視しているんだ、それならそれでいいよ。私は勝手にさせてもらうから、淳のことにも口を出さないで貰いたいね」
と、不満をぶつけて怒りを顔に見せながら俊介を睨んでいる。俊介は諦めきった表情でテレビに向かっている。彼には香奈を説得する気持が無かったのだ。好きなようにすればいいじゃないか、どうせ僕の言うことは聞かないのだから話しても無駄だと心に決めている。
「あんたは父が見込んで結婚したのやけど、見込み違いやった。実直な青年やというだけでほかにとりえは無かった。出世の仕損ないで退職金も年金もすずめの涙じゃないの。父の遺産が無かったら暮らしてゆけないのよ。淳はあんたのようにはなりたくないから頑張ってるんじゃないの。その足を引っ張るようなことはしないで頂戴。淳のことは私に任せてもらえばいいの」
香奈は俊介の背中に言葉を浴びせている。喧嘩にならないのは俊介が取り合わないからであるが、それがまた香奈を一層いらつかせているのだ。香奈は突然、ちゃぶ台の上のリモコンを取り上げるとテレビのスイッチを切った。俊介は卓上の新聞紙を手に取り上げて無言のまま自室に向かう。香奈はコブシで卓を叩いていた。
七
それから数ヶ月経ったある日、八重が戻ってきた。実家の両親と暮らすことになったから、美樹と一郎を連れてゆくと香奈に言う。このとき玄関に立って八重を見た香奈はこのいきなりの言葉に息を詰まらせた。
「帰ってくるなりそんな挨拶は無いでしょう。うえにあがって説明して頂戴」
と言うのがやっとであった。
しぶしぶ座敷にあがった八重に茶をすすめて落ち着かせた香奈は、子供のためには家に戻って淳と暮らすのが一番いいと言ったが、八重は首を縦に振らなかった。それどころか淳が家庭を顧みないのは私にも子供にも愛情を抱いていない証拠だし、こうなったのはお母さんが淳の育て方を間違ったからだと非難した。