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ある女の自画像

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 母がそう切り出したのは、ダイニング兼応接間で三人が午後の紅茶を喫しているときだった。私は自分の予感が当たったと思ったとたんに身震いした。桂は黙っている。あらかじめ承知しているようだった。それが憎い。何故、私に先に相談してくれなかったのかと気がいらだっている。
 母は承諾を求めた。一人暮らししているより桂に老後を看てもらえる家族であったほうが、英も安心じゃないかと言った。これには反対できない。母は新しい人生を選択したのだ。過去を捨てるように生きようとしている。その気持は解るのだけれども、私の心にしっくりとは落ち着かない。養子縁組をすれば母の遺産は桂が相続するだろう。いまからそんなことを考えては母に失礼だと思いながら、現実問題としては考えざるを得ない。父の遺産は多分、叔母の菊に与えられるだろう。私は捨てられているのだ。私は自分の心が落ち着かない原因はその事にあると思った。
━桂さんはそれでいいの?
 私は、自分の心を隠すように、尋ねた。桂の反応に鋭い神経を研ぎ澄ましている。それが私を緊張させていた。顔は穏やかにしているつもりだが、目は桂を射していた。桂は私の心を見抜いているようだ。厄介だなあという顔をした。
━養子に迎えていただくのはありがたいと思っています。義母さんを心から支えてまいります。現在は仕事に慶びを発見しています。それ以外のことは私の知らぬことですから疑念がおありだったら義母さんにお尋ねくださいね。
 桂は、私の心を覗いたように、疑念があればと言った。その意味が何だかはお互いに解っているが口にはしない。口にすれば母が困る。
━仕事に戻りましょうか
 母が声を掛ける。私と桂の遣り取りに母は口を挟まなかった。なんとなく気まずい風が流れたが、桂が笑顔を見せたので救われた。私も調子を合わせるように笑顔で応える。母は先に立って仕事部屋に向かった。桂がその後に従う。
━また訪ねて来ますから
 私は早々に引揚げることにした。久しぶりに母に会って積もる話をしたいと思っていたのだが、話す機会をそがれてしまった。私が桂の養子話にこだわりを覚えたことが原因だが、それが悪いことだとは思わなかった。私は孤児になったという思いがしたのだ。母を慕う気持が強かっただけに突き放された気持に襲われたのである。それでもまた母に会いたいという思いがある。
 母娘の情はドロドロしていて粘着するときもあるのだが、突然にあっさり切れることもあって、そのときは激しい敵愾心をお互いに燃やしている。今日のように別れると、冷たい空気も混じっている。猛はまだ小学四年生で男の子だから、女同士の微妙な感情の動きを感じてはいないだろうが、花は中学一年生で女の子だから、こうしたことにはいたって敏感だろう。それは私自身の経験でもわかっていることだし、花のように私よりも繊細な感情の持ち主には想像以上の影響を与えている筈だ。
 私の娘・花と桂の娘・映は、同じ中学で同学年同級生である。担任の天瀬礼子先生は我が家の家庭事情も桂と映の母娘の暮らしのことも、家庭訪問である程度は知っている。その口から、子供たちに余計なことが漏れては困ると、私は礼子先生に口止めしておこうと思った。これは余計な心配かもしれないが、そうしないと不安である。
 思い立つと直ぐ行動に移したくなる性格の私は、突然に、礼子先生を学校に訪ねた。学校と言う雰囲気にはすっかり慣れている私は、戸惑うこともなかった。職業では同じ教員仲間だという親近感が働いていたのであろう。だが、礼子先生は私の突然の訪問に当惑したようであった。それでも、丁寧に私の話を聞いてくれたので、私は満足して帰宅した。
 だが、この日の夜、花が激しく私を攻撃した。「私は学校へ行けない」と、花は泣き喚いたのである。「母さんは私の友達から嗤われてるよ」、「礼子先生が母さんのことをクラスルームで喋ったのよ」「母さんのような独善的は人間になってはいけないって」。
 予想もしない展開になって、私は残念だった。けれど、後悔はしていない。花の心を傷つけたのは私ではない、犯人は礼子先生だ、独身の礼子先生には母と娘のことなどわかるはずが無い、私はそこまで気を廻すゆとりを失っていたのだ。失策だった、私はそう思って気を静めることにした。

             三
 夫の茂は建設会社に勤めていたのだが、小泉改革の犠牲になって失業した。その最大の原因は公共事業の激減だった。お定まりのコースを真っ逆さま転落したのである。まさかの出来事だった。生計は夫の失業手当と私の給与で賄っている。
 夫の茂は陽気なタイプで少々のことにはめげないのだが、今度ばかりはこたえている。次の就職先を探すように私が勧めても、会社勤めはもういやだといって動かない。代わりに、「おまえが正教員になれ」と言う。語学教師にそのような機会は滅多にないと私はこぼしている。
 私は教育現場の苦労は改革のためだと、いつも不満を茂にぶつけていたが、茂は規制緩和と自由競争の信奉者で、「お前の頭は古い」と私の苦情を一蹴してきた。私は小泉政治が誤りだったことを茂の失業で確認した。それでも茂は納得しない。改革は必要だと言って譲らない。
 このところ二十四時間家庭勤務になった茂を置いて、私は五つの大学を車で回る。私は「講義の出前」だといって笑っているが、週二コマで月五万円だと五校で二十五万円にしかならないので、生計は苦しい。保育園や小学校の費用は今のところ茂の失業保険で賄っているが保険給付には期限がある。
 私は、茂に言われなくても、常勤の口を捜しているのだが、語学教育はコマ数が多いので、学校側はすべてのコマを常勤教師で埋めると教員の人数が膨張するのでそれを避けるために非常勤講師でカバーしている。語学教師にとって常勤は狭い門である。だから私は、非常勤の掛け持ちをしている。
 茂が扶養家族になってしまっている現状はなんとしても打開せねばならない。茂を見る私の目が厳しくなったのは、彼が一般論ばかり言って、にわか評論家になっているからだった。自分が失業しているのに、構造改革はこの国の将来のために必要でそのために失業者が出ても改革の痛みとして受け止めるべきだという。それでわが家の家計が壊れていることを何と思っているのだろうと、私の怒りの気持は高まっている。
 男は何と言う動物なのだろう。天下だの国家だのと大言壮語していられるのも女が家庭を守っているからではないか。子育てしながら外で働いてその上に夫の面倒まで見ているのを何と思っているのだ。私が倒れたら皆、おまんまの食い上げじゃないか。人の苦労が解ってるのかね。私はイライラしながら毎日を過ごしている。
 私が結婚相手に選んだ茂は風貌も話し方も父に似ている。いまごろになって、私はそれを何故かと自分に訝っている。自分のなかに父親を慕う心が残っていたからだろうか。世の中には姑に似た嫁が来るという言葉があるが、父親に似た夫を持つという言葉は聞いたことがない。私は「ふ、ふ」と自分を嗤う。それは自嘲のようでもあるし満更でもなかった。
 茂の再就職が決まる。建築設計事務所に入って一級建築士の資格取得を目指すことになった。彼に人生の目標が出来たことは私にも幸せである。
作品名:ある女の自画像 作家名:佐武寛