ある女の自画像
小説ーある女の自画像
佐武 寛
この日、わたしは、小学四年の息子・猛と中学一年の娘・花の二人を乗せて、車を走らせていた。車の両側に広がる田圃と散在する家屋を横目に見ながら走っていると、フロント・ガラスの先に父の姿が見える。その姿は車のスピードと同じ速さで遠ざかる。
━父は生きている、それなのにどうして
私は不思議だった。夕方とはいえまだ日なかである。その姿を追いながら車を走らせる。これは幻想かと思ったが、付き合ってみることにした。子供たちはバック・シートで寝ている。バック・ミラーで確かめながら、私は心を落ち着かせていた。
何処をどう走ったかは定かに覚えていないが、父の姿が消えたのは車が南禅寺山門近くに来たときである。奈良から京都へ随分走ったものだ。私は車のブレーキを踏んだ。そして両手を挙げて叫ぶ。
━バイバイ、またいらしてよ
子供たちがその声に目を覚ます。
こんな所に連れて来るなんて、私はあきれながらも不満ではなかった。此処は父と母が最初に出会った場所だったと聞いていたからである。そして、「ふ、ふ」と自嘲した。父は今、寂しいのだろうと思う。今頃は多分、大原野の家
で病臥しているのかもしれないと想像する。
今はこぶ付きの年齢だが、父母に対しては昔ながらの幼い心が残っている。慕っているのだ。その心が父を呼び寄せたのだと思い直している。だったら、父の姿は自分の心の映像ではないか。父が自分に会いたがっているのではなくて、逆に、自分が父に遭いたいと思っているのだ。私は「ふ、ふ」と嗤った。
子供の心は両親の離婚で引き裂かれる。私はその犠牲者である。だから両親にはよい感情を持っていない。それなのに両親のことが心配になる。これは自己矛盾だと思いながら制止はできない。
大原野の父の家に着くと、叔母が出て来た。車の中からケータイで、そちらに寄ると連絡して置いたので待っていてくれたのだろう。慌てた様子はない。広い庭が自慢の奥座敷に通されると、シルクの部屋着を着た父が隣の部屋からふすまを開けて出て来た。其処が父の居間だ。庭に面した広い長廊下で二つの部屋はつながっている。
━突然で失礼だけど
私の声に頷きながら父は二人の孫に目を注いでいる。長身で逞しかった姿は萎れているので寂しい。だけど、父に遭えた嬉しさが体内を巡るのを感じた。父と別居してから溜まっていた感情が湧き出したのだと思う。両親の離婚は子供には災難でしかない。理由はあってもそれは親同士の問題なのだ。父が勝手に別居した。
━気侭暮らしは楽しいの?
父は苦笑いした。私を見る目が懐かしそうだ。その雰囲気から寂しいのだろうと私は思った。
━お母さんは元気か
父の言葉は弱々しいが、情が篭っている。定年で隠遁を決め込んだようだが、それは一人では重すぎたのではないか。叔母が夫と死に別れて一人だったのを良いことに、父は叔母の世話を受けている。男って勝手なものだという気持にもさせられたが、叔母のおかげで母も私も安心して居れるのだと、叔母に感謝する気持が優先した。
━父さんの霊が浮遊して私の目の前に現われたから訪ねて来たんだけど、眠っちゃあいなかったので安心したよ。
父は驚いた顔を私に向けたとき、その目の奥に別人が居た。こいつがやって来たんだと解った。私を見て笑って居るんだ。父は脱け殻だったんだと思う。今は正気を取りもどしているが、多分あの時は死んでいたんだろうと想像する。
━私たちに言っておくことがあればいま言ってよね
私は自分の気持を率直に表現した。
━英ちゃん、何言ってるのよ
叔母が吃驚したように声を挙げる。その顔が菱のように鋭い角状に強張っていた。怒っているのだとわかるその表情から、私は父の死期が迫っていると直感した。
━菊さん、気を遣わなくてもいいよ。癌の末期だから長い命ではない。英には見透かされている。感の鋭い娘だからね。現役を終わったときから僕は憑き物が落ちたように休息を求めた。その気侭から妻の紫や娘の英を捨てたのだ。そうだったなあ、英
父は悔恨の情を秘めているような音色を声に乗せていた。私は「ふ、ふ」と嗤い、今更、何よ、という気持で父を見る。
二
母は和装用小物のデザインと製作や扇子絵を描く絵師をし、問屋に勧められて二人の弟子を迎え入れている。寡婦の桂とその娘の映で、桂は私より少し年上のようで、映は中学一年生。問屋の縁戚だというから身元は確かである。二人は母の家に住み込んでいる。父の使っていた部屋には母が住まい、母の部屋には桂が、私の部屋だった居間には映が、それぞれ住んでいる。母は女家族だといっている。
父と会ったことは母に言いたくなかった。叔母から既に伝わっているかもしれない。母が言い出すまで黙って居ようと決め込む。うかつに喋って、あれこれと聞かれると面倒だし、父の病気にも触れたくなかった。
━猛君も花ちゃんも元気にしてるの?
私は救われた気分だった。母は父を素通りしたのだ。息子の猛と娘の花のことならすらすらと喋れる。親は子よりも孫が可愛いという。私は親の気持に甘えている。母と私の鎹が孫だなんて、寂しい気もするんだが、猛や花にはいいことなんだ。私は、二人の子がやんちゃ盛りで困ってることや、勉強させるのに苦労してること、趣味を身につけさせてやりたいと思って花には日本舞踊をやらせていること、猛にはサッカー倶楽部に通わせていることなど、取りとめもなく喋った。その間、母は目を細めて満足そうに聞いていた。
━お仕事は順調のようね
私は母に多少の感謝の気持を表した。
━桂さんと映ちゃんが加わってくれたので助かってるの
━良かったわね
私は、こういう場合の常套語を口にしながら内心では嫉妬している。口と心は別なのだ。
私は母が新しい家族を作ったことを歓迎しながらも疎外感を受けている。
━桂さんに逢いたいね
私は突然、思っても居なかったことを言った。心のどこかから飛び出してきたのだ。母の何かに触発されたのだろう。母は「そう」と言って、桂の仕事部屋に案内してくれた。桂と初対面の挨拶をする。
━匂い袋を作っていなさるのね
桂は頷いたが何も言わないで手を運んでいる。無視されたのでもないが物足りない。ピンクの作業着が頬に映えている。匂い袋に真剣な眼差しを向け器用に手を動かしている姿に私は圧倒された思いだった。
━母さんのお気に入りね
側にいた母が頷く。桂は母の好みのタイプなのだ。物静かで芯が強そうである。母の思っていることを母が言う前に察知する程の勘の持ち主だという。母は「以心伝心」よと、笑っていたが、それだけではないだろうと思う。霊的な繋がりがあるのだ。母の理想の娘に成り切っているのではないか。私は母から遠い存在になっているのではないか。その懸念が私の胸を突き上げるのだ。
━桂さんを養女に迎えたいの