忘れじの夕映え 探偵奇談8
一度きりの、今
あの日会ったことを郁は殆ど覚えていなくて、気が付いたら電車に揺られていた。
ことの顛末を聴いたのは、翌週の月曜日のことだった。
「一緒に大人になれなくても、二度と会えなくても、あっくんと出会ったからいまの自分があることに変わりないから」
青葉はそう言った。昼休みの音楽室。瑞、そして伊吹と郁は、青葉が語るのを聞いている。
「大事な思い出だから忘れない。もう戻らないのかって悲しむよりも、時々あっくんのこと思い出して、そんで、楽しかったなーって思えるほうが、あたしにはずっといいの」
青葉の表情はいつものように明るく、そしてほんのすこし優しい。郁は何度もうなずいて、その言葉に共感を示した。
「こんなことが弔いになるかはわかんないけど…。つーか須丸ってほんとにピアノ弾けるの?」
音楽室のグランドピアノに座る瑞が、心外だなと口を尖らせた。
「俺楽譜は読めんけど、聴いたことある曲なら弾けるぞ。昔ねーちゃんがピアノやってて時々教えてもらったんだ」
ふうん、と疑わし気な青葉の手には、ソプラノリコーダーが握られていた。
そんな二人を、郁は伊吹と一緒に見つめている。
「あいつピアノ似合わねえなー」
「そうですか?あたしは結構絵になってるなって思いますけど…」
(………恋は盲目)
あの日夕映えのススキ野原で聴いた、遠い過去から届いた曲を、あつしの弔いのために奏でる。
「じゃあ行くよ」
「ん」
瑞の少したどたどしい、ゆっくりとした前奏で、その曲は始まった。マイボニーのどこか懐かしい旋律。リコーダーの音が静かにピアノを追いかける。
(あつしくん、聴いてくれてるかな)
郁は目を閉じて、心を重ねた少年のことを思う。
作品名:忘れじの夕映え 探偵奇談8 作家名:ひなた眞白