忘れじの夕映え 探偵奇談8
ざざ、と少し強い風が吹いた。山全体が鳴くようなさざめきに、瑞が天を仰ぐ。
「…忘れられた場所に、いまもまだ捕らわれてる」
「え?」
「いる」
瑞の視線は、天から逸れて広場の端の木々の並ぶ林へ向けられている。
「あの木のところで…そう、あたしあっくんと話した」
青葉が瑞の視線を追って、零れてくる思い出を受け止めるように話し出す。
「どんな話をしたんだ」
「…あっくんが、言ったの。青葉ちゃんのこと、ずっと覚えていたいなって。それで、あたし、あたしは…」
そこで、電池が切れたように青葉は固まってしまう。思い出そうと、必死で記憶の糸をたどっているのだ。
もしかしたら、と青葉の必死な背中を見つめながら、郁は思う。
もしかしたら郁にも、あるかもしれない。思い出せない約束。忘れてしまっている大切なこと。どんなにどんなに忘れたくなくても、手のひらにすくった水が零れるようにして、記憶から漏れ出してしまった「なにか」が、郁にもあるかもしれない。
そうやってすくって零してを繰り返して、きっと今日まで生きているのだ。
初恋だって。いつまで覚えていられるのだろう。瑞を好きなこの気持ちだって、いつかは正確に思い出せなくなるのだろうか。好きだったなという事実だけを残して。
綺麗な髪の色が夕日に透けて美しいことも。横顔に、ほんのすこしだけ漂う悲しそうな表情がたまらなく愛おしいことも。いつか、思い出せなくなるのだろうか。
(あっくんは、思い出せなくなることが怖かったのかな。それとも、忘れられることの方が、怖かったのかな…)
瑞もいつか。
郁との時間を、忘れてしまうのだろうか。
忘れられるのは、怖い。とても。消えてしまうようで。
作品名:忘れじの夕映え 探偵奇談8 作家名:ひなた眞白