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鶯谷の十蔵

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 今現在の制度のもとでは、実際には、嫁に対する生前贈与という形になるが、嫁は贈与という恩恵を受けるのではなくて、遺産を相続する権利を有するものと認められねば、義父母に尽くす介護等の働きとの釣り合いが取れない。相続を家のしがらみのもとで制度化する現行法は、個人財産の個人間の移転という発想で、改正されるべきだと仰っている。私には難しいことは解らないが、実子と義理の子を差別しないで、両者を同等に扱うべきだということらしいの。嫡子と庶子の相続上の差別が撤廃される方向で法が改正されている様に、産みの子も婚姻に由る子も相続に関して同等であるべきだということらしいの。
 だから、私のことで、お舅さんと話をされる時には、このことを心にとめていて欲しいの。お願いします。」
 咲が漏らしたこの突然の話は、男たち三人に大きな衝撃を齎したようである。誰も何も言わなかった。深いため息のようなのが静かに流れる。
「高齢化社会はみんなが助け合って生きる社会だ。それには個人と個人の関係が原動力に成らねばならない。咲の舅はまさにその考えに立っている。大いに教えられた。目からウロコだ。」
 十蔵が感動した。
「家族主義にとってかわる個人主義が、このように機能するのであれば、美しい。」
 直が感激している。
「血統主義よ、さらばということだ。家を支えてきた血統主義は、生殖医療の進歩で唯一の価値基準では無くなった。」
 俊はこれまでの無頼の生活に郷愁を覚えた。
「話しておきたいこと、話したので、帰らせてもらっていいかしら」
 咲が、ホッとしたような顔で、尋ねた。
 
 
 三人の子供が家を去った後の十蔵は、もぬけの殻のような気分であった。俊も結局は都会にしか暮らせないと解って、直と咲と一緒に郷里を離れたのである。俊は、咲のけなげな姿を見て自分が恥ずかしくなったと告白している。だが本当は、都会が恋しくなったのだと、十蔵は見抜いていた。
 直は、昇の女関係を洗って浮気の責任を昇に取らせるのが、咲の今後にとっては絶対の条件だと、昇の罪を暴くことに消極的な咲を懸命に説得しているが、咲が直に頼んだのは、内緒で説得して貰うことであった。
「咲は、どうして昇をかばうのか、なぜ彼を許す気持ちになるのか、僕には咲の気持がよく解らない。昇の行状を洗ってくれと、僕に頼んでおきながら、今の咲は、中途半端だよ。姑さんが、昇を溺愛していることは、以前からよく知っている。ひょっとしたら、咲は姑さんの気持を汲んで、昇を許してもいいと思っているのでは。姑さんは、咲に縋りついているように、昇にも助けてもらいたいという思いが異常に強い。二人の姿を見て、咲は、自分はどうすればいいのか、迷っているのではないか。それに、言いたくはないが、咲は、今でも昇を愛している。俊もそれを見透かしていたよ。俊が都会に出ると言って郷里をでたのは、昇の過去を徹底的に洗い出すためだよ。俊は社会の裏面を誰よりもよく知っているし、その筋に知り合いも、子分もいる。咲が昇を許す気持ちでいても、俊は、絶対に昇を許さないよ。」
 直は、咲の気持に引導を渡すように強い調子で告げた。
 
 
  咲の家では、姑の認知症が急速に悪化して、姑は誰かれの識別が難しくなっている。咲のことももう解っていないようであった。何かにこだわると、一日中、それについて話す。自分の最も大切にしているものが無くなったとか、誰彼が盗った、隠した、という疑いをかける。一点を凝視して動かないこともある。咲は、このような姑の身の回りの世話を一人で引き受けている。舅の手には負えない。舅自身も老人性の病を抱えている。
 最近、昇は、そういう状態の母親を見て見ぬふりをする。咲が姑の病状についてあれこれと説明しても、咲を助けようとはしない。仕事だと言って、相変わらず外泊が多い。自分の父親とも家の中ですれ違う程度の付き合いである。家事の手助けのためにお手伝いさんに来て貰っているのだが、昇は、自分の身の回りの世話のために、お手伝いさんを利用する事が多い。
 咲は、昇の身の回りの世話は自分の仕事だから、構わないで下さいとお手伝いさんに言うのだが、一向に改まらない。咲は、昇が、お手伝いさんに、チップを渡しているところを目にしたことがある。
 ある日、舅が昇と諍いを起こした。その原因は、舅が昇に咲をもっと大切にしろとか、隠し事をするなと忠告したことにあったようである。昇は、俺たち夫婦のことに、親父が口を出さないでくれとか、親父は変に咲を身贔屓していると詰ったりしたそうである。咲を挟んで、昇と舅が対立したらしいのである。咲は、この諍いに巻き込まれたくは無かったので、用事を創って外出した。
 この事件に、火に油を注ぐようなことをしたのがお手伝いさんであった。昇が不在の時に、咲と舅が、あれこれと、これからのこの家の過ごし方を話し合っていたのを耳にしたお手伝いさんが、適当に、自分の作り話をも混ぜて、昇に告げ口した。その中には、遺産相続に関して、昇を排除するような話があったかのように伝えたのである。多分、嫁の遺産相続権を認めるべきだという舅の持論を、この時も舅が話していたのであろう。
 自分の身持ちが悪くて妻の咲とぎくしゃくしている現状に、まるで火に油を注ぐかのように、この事件が昇を激昂させた。昇は見さかいも無しに咲に当たり散らしている。咲に感じている自分の引け目を逆手にとって、この時とばかりに、咲が父親を焚きつけて、自分に有利なようにことを運ぼうとしていると邪推したのである。
 
 舅が関心を寄せている今一つのテーマは、安楽死や尊厳死を、欧米のように、制度として認めるべきだということであった。
 最近、舅の兄が肺がんで死亡する直前に、筆談で、自分の娘に、
「オランダでは安楽死が認められているのに、日本では何故、認めてもらえないのか」
 と、安楽死を求めたことを、姪から聞いて、
 舅は真剣にこの問題と取り組むようになった。
 舅の姉も脱水症で倒れて、かろうじて命を取り留めた後で、救急病院から医療病院に移り、病院の都合で、胃ろうを装着してから、すでに十年近くなっているが、意識朦朧としていながら、生存している。
 寝た切り老人は、病院や居宅にどれだけいるのだろうか。高齢化社会を活き活きと生きるという中に、これらの寝た切り老人は入るのだろうか。入らなければ見捨てられている。その数は年々増えているという。見捨てられた老人を社会はどのように守るのか。医療は継続している。療養も存続して入ると言って済ませることでは無くなってきているのではないか。
 舅は妻の症状をも考え併せながら、この国の終末期医療が生存にのみ集中的に配慮し、何が何でも生存させることに医療の本領があると思っているのではないかと、そのことに疑問を抱いている。患者は生かせばいいというものではない。生き方が問題である。欧米で社会的な制度として認められている安楽死は、患者が死を安らかに迎えられるように医師が処置することを黙認する。尊厳死は、死期の来た患者に医師が治療を施さない。
作品名:鶯谷の十蔵 作家名:佐武寛