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鶯谷の十蔵

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 咲はこの時、砂上の楼閣のような我が家の幸福を壊さないで、このままの偽りの生活を継続することに、何らの抵抗をも感じないでおれる強靭な心構えを自分のものにしようと決心した。雨降って地固まるというではないかと、勝手な納得を自分に言い聞かせながら、自分のやるべき役割は、哀れな夫に代わって、舅姑の老後の世話に徹することではないかと思った。この思いを、咲は、父・十蔵に解ってもらいたくて、郷里を訪ねることにした。手紙では自分の思いが十分には伝わらないもどかしさを感じたからである。
 
 姑は、咲だけにしか自分の世話をさせない。病院通いから自宅での介護まで一切を咲に頼っている。病院に付属する居宅介護支援センターの介護支援専門員が、デイサービスの案内をしてくれても、サービスを受けたくないと断る。専門員が、遠回しながらその理由を聞くと、介護拒否症ともいうべきかたくなな心に立て篭もっているのである。介護員に自分の尊厳を冒されたくないという自尊心が、自分を弱者の側に置くことを禁忌させている。
 このような人を介護施設に送り出すわけにもいかない。病状が進んで通院できなくなれば、訪問介護を受けざるを得ないのだが、姑は人の選り好みが激しいので、訪問介護をして呉れる人と諍いを起こしたり、介護そのものを拒否する可能性も高い。咲は、それを見通しているし、恐れてもいるので、最後の最後まで、自分が世話をせねばならないだろうと観念している。
 咲が実家の親兄弟にこのよう事情を打ち明けると、真っ先に反対したのは俊であった。俊は、昇の破廉恥な行状を不問に付すような咲の態度に不可解な印象を持っていたので、離婚と慰謝料の請求が当然のことだとまくしたてた。
「俺の人生経験からすれば、昇のような奴は、法の網にひっかかるまでは、したたかな顔で、人を見下して生きることに優越感をもっている。自分の罪は自分を助けてくれた部下になすりつけて、ケロットしている。破廉恥を何とも思わないどころか、自分ならやっても誰も文句は言えないという特権意識を持っている。俺のように東京のど真ん中の盛り場で暗黒の世界を生きて来た人間には、どうしても許すことのできない野郎だ。咲がどうしてこんな男に惚れているのか、其処のところが解らない。」
 俊は、咲の顔を凝視して、返答を待つような素振りであった。向かって坐っている十蔵は黙って聞いている。咲の向かいに席を占めている直は、十蔵を見詰めていた。暫く沈黙が続いたとき、直が口を切った。
「咲のヒューマニズムだ。咲は、嫁ぎ先の家族全員に愛をそそいでいる。至高の愛というものだと思う。咲は、夫も舅も姑も好きなのだ。夫の不実を許し、姑の病苦を我がことのように受け止めている。家族間の争いが訴訟の対象に成ったケースを沢山扱って来たので、咲が今立たされているポジションが、どのように困難なものか、家族関係の破綻、そして憎悪への発展、結局は人間の孤独を味わうことに成るケースを知っている。咲はそれを本能的に避けようとしている。その本能を動かしている動因こそ、咲の心の泉から湧いている愛なのだ。憎しみ合う家族のケースでは、愛が当事者に存しないがために、骨肉の争いを地獄に持ちこんで仕舞うことが多い。だが、当事者の誰かに愛があれば、円満な解決に到る余地がある。」
 直は、弁護士としての経験から、咲が、昇との間にどのような距離を置いているのかを知りたいようであった。俊のいうように訴訟を起こすとしても、そのことが事案を解決する決め手になるとは限らない。
「昇を被告にした訴訟を咲が起こせば、一番悲しむのは、姑だ。咲は姑にそのような思いをさせたくないだろうから、俊のいうように離婚訴訟を起こす覚悟は咲には無いだろう。」
と、十蔵は咲の顔を見た後、
「咲が、姑の介護から解放されたいと思っているのであれば、離婚訴訟を起こして婚家を去るという強硬手段が有効だろう。咲の姑に対する愛情を強制的にシャットダウンすることが出来る。咲はそれでもいいのか。」
と、咲に問いかけた。
 十蔵には、咲の心の奥にたまった疲労が、咲の判断を狂わせているかもしれないという危惧があった。本当は姑の看護から解放されたいのに、それとは全く逆な行動を続けているのではないか、そのことを咲自身が気づいていないとすれば、疲労の蓄積が、突然せきを切ったように、咲を襲って来る危険があると、十蔵は心配していた。それに気付かせようとして、彼は、敢えてこのような問いかけを咲に向けたのである。
 咲が十蔵の思いを読み解くことが出来たか否かは不明である。
「病人の介護は最低がいい。盛り沢山な介護は患者のためにはならない。患者の自立心や自尊心を損なうだけである。依頼心を起こさせないように必要な介護を最低限提供するように咲は心得て欲しい。」
 十蔵は、姑が咲に寄りかかって、過剰な介護を求めているのではないかと確信をもって想像していた。
「姑を咲から切り離さないと、咲が身体を壊してしまう。この際、介護付きの老人施設に姑が入所する手配を昇にさせるべきだ。」
 十蔵は、咲の父親として、きっぱりとした結論を出した。
「昇は、咲に対する償いのためにも、自分の母親の面倒を自分が看るべきだ。当然、姑には施設に入所して貰うことになるだろう。舅も反対するとは思われない。」
 俊が、十蔵の意見をフォローした。
「親父も兄も、咲が抱えている問題の本質を究明するのではなくて、咲がかわいい、咲に苦労させたくない、咲を守ってやりたいという情感を優先させて、咲の荷を軽くしてやることだけを考慮した結論を出したのではないか。僕はそれでは必要かつ十分な結論に成っていないと思う。この際、咲の夫・昇の浮気の責任を追及すること、姑の介護を巡る家族の役割分担を明確にすること、そのうえで、この家族の暮らしのデザインを設計する。これだけの手順が必要だと僕は思う。この全体をパッケージにして今後の家族の在り方を決めるべきだと思う。」
 十蔵と俊の話でことが終わりそうになったとき、直が、自分の意見を明確に述べた。
「よし、決まった。この件は直に任せよう。親父もそれでいいのと違うか。親父と俺の気持を汲んで、直が昇とかけ合ってくれ。咲にも文句は無いやろう。」
 俊が、この件を収拾するように発言した。すると、これまで黙って聞き役に回っていた咲が、発言の機会を求めた。
「お父さんも、お兄ちゃんたちも、ありがとう。私のために真剣に話し合ってもらって、本当にありがとう。実はね、今まで黙っていたのだけれど、この際、言っておく方がいいと思って、言わせてもらいたいことがあるの。お舅さんからは、絶対口外するなと、口止めされているのだけれど、話しておかないといけないと思ったので、言わせてもらいます。お舅さんは、舅姑の財産を、息子の嫁が相続する権利を認めるべき時代だと言ってらっしゃるの。今の民法は父系家族の発想を留めているから、嫁を不当に差別している。嫁の相続権を認容する法律を制定すべきだというご意見なの。
作品名:鶯谷の十蔵 作家名:佐武寛