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鶯谷の十蔵

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   鴬谷の十蔵 
                          佐武 寛

「毎日、普通に飯食って、普通に仕事して、普通に寝られたら、それが最低の幸福や」
十蔵は、以前、子供たちに、口癖のように言い聞かせていた。
 この普通が、なかなか得られないようになったら、生きる事も難しゅうなる。十蔵には、二人の男の子と一人の娘がいる。俊、直、咲という。
 俊は、歌舞伎町界隈にねぐらを措いて、長らくよからぬ仕事をやっていたが、この世界でも新旧の世代交代の波が押し寄せて来て、廃業に追い込まれた。何十年振りかに帰った郷里で、清流を遡るアユの群れに見とれているうちに、自分を清めたくなったと、父の十蔵に、ある日の夕食の席で、頼み込んだ。
「林業の仕事を回してもらえんか、腰を据えて、これから一生の仕事にしたい。目鼻がついたら、嫁ももらって、親孝行するからよ。これまで、心配かけたが、今度は心を入れ替えて、まっとうな生き方をしたい。帰ってきてよかった。故郷の自然が、俺を蘇らせようとしてくれている。すがすがしい気分で一杯なんよ。小学生のころにもどった様な気持に包まれている。」
 俊は、帰郷して数カ月が経った今、身も心も故郷の風に洗われたようだった。その様子は十蔵にも伝わっていた。
「当分、賃仕事で、伐採やら植林の下職をやらせてもらうか。当分それをやって、お前という人柄を見て貰ってからでないと、誰にも何も頼めない。東京から変な人間がおっかけて来るかどうか、それも確かめないと、俺自身もお前を信用していいのか悪いのか解らない。とにかく、当座の仕事は頼んでやろう。この歳になって、迷惑は人にかけたくないし、村八分にかけられたくないからのう。俺がこの村を追われたら、お前たち子供も故郷が無くなる。この山の村では、どの家族も一人ひとりの顔が村の皆に知れ渡っている。我が家は、子供が三人共に、高校を出てすぐに村を出てしまったから、俺も母さんも肩身の狭い思いをして暮らして来た。お前が戻ってきたので、嬉しいのだが、都会の悪い空気に浸かって来たお前が、この山の村に馴染めるかどうか、それが心配なのだ。」
 十蔵は俊の帰郷を嬉しさと心配の入り混ざった複雑な感情で迎えている。弟の直は弁護士事務所を開いている。娘の咲は中学校の英語教師をしている。
 
 咲は、姑が腰痛で歩行困難なうえに、認知症に罹っているので、日々の介護に時間を割かれるだけではなく、身体も気分も疲れると、十蔵に書き寄越している。
 毎朝は、二人の子供を学校に送り出して、夫と一緒に勤めに出る。舅がいるので、姑の世話は任せたいのだが、この人が、なかなか頑固で、息子の嫁が姑の世話をするのは当たり前だという態度で、何一つ手伝おうとしない。舅姑には、何れ介護付き老人ホームに入居して貰う積もりでいるが、説得には時間がかかりそうだと、咲は十蔵にこぼしている。
 この咲に、最近異変があった。夫の浮気相手が、夫の留守に自宅に訪問して来て、夫が独身だと言ってこの女性と結婚する約束をしていたことを告げた。晴天の霹靂とはこのことで、咲は、その時、卒倒しそうになったという。とにかく、事態を明らかにして、どう収拾するかを冷静に判断するためには弁護士に頼むしかないと、咲は、その女性が帰ったあとで、兄の直に電話した。
 夫は商社勤務で、子供が幼かったころは家族揃って海外駐在を楽しんだ思い出がある。その頃の夫は優しかった。咲はその頃の思い出を書き綴った手紙に、当時の家族写真を同封するとともに、夫の浮気相手の女性が自宅に訪ねてきたことも書き添えて、十蔵に送った。詳しいことは、弁護士の兄と相談するつもりだか、一応、こういうことがあったということを、父には知らせておいた方がいいと思ったのでと書き添えている。
 それから数日後、この手紙は十蔵の許に届いた。咲からの手紙に、嬉しさを満面に漂わせながら、十蔵は、せかせかと封をハサミで切って、急いで手紙を取り出した。数枚の家族写真を横において、真っ先に手紙を読み始める。囲炉裏を囲んでいた俊が、封筒からはみ出ていた数枚の写真を手に取った。咲の新婚時代の海外駐在時に撮った家族写真であった。夫の昇と二人の子供と共に咲が映っている。
 夫に寄り添っている咲は、希望と幸福を身体全体で表現しているようであった。夫の昇にもエリートの自負心と確信に満ちた活力がみなぎっている。この写真を何故送ってきたのだろうか。俊は訝ったが、その答えは、十蔵の唸るような声で始まった。
「昇は独身だと偽って、若い女と交際しておったという。その女が咲を訪ねてきたそうだ。
そのショックで咲は、寝込んでしまったが、舅が家の恥だと言って、勘弁出来ないだろうが、我慢してくれと、平身低頭して誤ったので、幾分か気分を取り戻したそうだ。どう処置すればいいかは、兄の直に相談して決めると書いているが、この写真を昇に渡して反省するように言ったそうだ。」
 二児の母だという自信と責任感が、咲に慎重な行動を指示していることがうかがえると十蔵は、咲の心の動きを読んでいた。咲ならこの危機は乗り切れる。姑の介護を自分一人でやりとうしている胆力も尋常ではないと、我が娘のことながら、日頃から感心していたのである。俊は、このおやじの落ち着きが、自分をも救ってくれているのだと思った。
 
 
 夫の昇は、自分の両親の日常の世話を咲が文句も言わずにやってくれていることに感謝の気持ちを持っているのかいないのか、まるで解らないような大きな態度で咲に接している。浮気のことも、咲がこらえて、無かったかのように、やり過ごしてくれていることを、まるで当たり前のように思って、悪びれた様子も見せない。件の女性からは、その後何の苦情も咲に寄せられていない事をいいことにして、解決したという態度でいる。
 咲から依頼を受けた兄の直が、密かに昇の身辺調査をしていることを昇は気付いていないようであった。その知らせによると、昇は、相当多額の金銭を相手の女性に与えて、和解している。この女性以外にも昇が交際している女性は数人いるが、純然たる遊びのためばかりでは無くて、取引の相手企業の情勢を探る手先のような女性もいる。この女性たちを束ねているのが昇の秘書の女性であるという事実も明らかになった。
 この秘書の女性は、咲の大学時代の友達で、アメリカの大学に留学し、学位を得て帰国して来た時に、咲が夫の昇に頼んで夫の会社に入社させてもらったのである。この女性が、昇の職場の妻で、彼女が今現在も独身でいるのは、昇が強引に彼女を説き伏せて、一生の面倒をみる約束をしているからであることも調査で明らかになった。
 咲は、調査から知り得た事実に唖然としたが、昇が仕事からのめり込んでいった世界のおぞましさに憐みを覚えた。健全で健康な家庭を築いて子供たちの成長に期待を寄せていた自分が、いかに世間知らずの愚か者であったか、これまでの自信を一挙に失った思いに自嘲せざるを得なかった。同時に、このような人間模様が、源氏物語の昔から繰り返されて来たのではないかと思い当たると、誰をも責める気はしなくなった。
作品名:鶯谷の十蔵 作家名:佐武寛