トカゲを食らうホトトギス
「そんな上から目線で言わないでください。だいたい、今日まで、どんなに頑張ってきたか分かります? 出来の悪い新入社員の仕事を手伝ったり、さぼっている中堅社員のフォローをしたり、だいたい派遣社員の私が、何でそこまでやらないといけないの?」と怒りを露わにした。
どう答えたら良いのか、戸惑っていると、
「分かっているの。派遣社員だからでしょ? そんなことは言わなくとも分かるの。でも悔しい」
「その悔しさは分かる」と言おうと思ったが止めた。下手なことを言って、火に油を注ぐような真似をするのは得策ではないと考えたからである。
「枯れたバラを見たとき、はっきりと気付いたの。自分も同じように枯れていっていると。うまく化粧しているから分からないけど、スッピンで鏡をじっと見ていたら、思ったよりも、目や口元に小皺があった。シミもあった。いつの間にか老けてしまった。ほんの少し前まで、小皺もシミもなかった。輝くような肌をしていた。たくさん若い男が言い寄ってきたのに。でも、今は不倫をしたがっている色褪せたオジサンだけしか寄ってこない……。ねえ、私をどう思っている?」
確かに二十代のピチピチの女性に比べたら、少し見劣りするかもしれないが、それでも十分に肌はきれいだ。
「どういう意味だい?」と聞くと、「私を一人の女性として見てくれる?」とケイが微笑む。何とも切なそうで、思わず抱きしめたくなる微笑だ。そのままじっと見つけていたなら、その微笑に吸い込まれてしまう……。それが怖くて、視線をそらし時計を見た。十一時を回っている。
「もう、そろそろ帰ろうか?」
ケイは「もう、帰るの?」と言って、辺りを見回した。誰もいない。
清算して店を出た。
金曜の繁華街というのに、行き交う人もまばらだ。
「静かだ。というよりも、寂しい感じがする」
「不景気なだけよ。景気が良くなれば、また賑わう。確か政府は景気刺激策を講じるといっているから、一年後ぐらいには、良くなっている」とケイは笑った。
「よく知っているな」とほめると、
「インターネットで、いろんなことを勉強しているの。人に負けたくないから」
負けたくない。そうだ、ある意味で負けたくないという言葉が彼女の生き方を示しているのかもしれない。会社では、決して弱さを見せない。
「ねえ、私はクビになるの?」とケイは立ち止まった。
「どうして、突然、そんなことを聞く」と微笑んだ。
「噂を耳にしたから」
「噂の多くは、根も葉もない」
「また上から目線で言う。そういうの、嫌いだと言ったでしょ」
「悪かったよ」と素直に謝った。
「へえ、素直に謝るんだ」とケイは感心した。
「謝るのはおかしいか?」
「おかしくないけど、でも、やっぱり、おかしい」とケイは笑った。
子供みたいな笑みだ。それに誘われたわけでもないが、つい、「ここで別れるのは名残惜しいから、もう一軒、行くか?」と言ってしまった。
「どこ?」
いろいろ考えた末、浮かんできたのはスナック『K』だ。
「スナックだ。近くにある。カラオケもできる」
「行くよ。今夜はとことん飲みたいから」とケイは微笑む。
店は混んでいない。
「あら、こんな時間に珍しいわね。あら、ご一緒の方は恋人?」とママがからかう。
「そんなわけないだろ?」と照れると、「そうよね。歳が離れているもの」と何食わぬ顔で言う。
「相変わらず辛辣だな」と睨むと、「冗談よ、本気にしないでよ」と囁いて消える。
カウンターで座る。自分たち以外はいない。酔っ払ったケイがカラオケを歌い始める。歌いながら、まるで誘うかのように、足をからませてくる。そのうえ、キスをするような真似をしながら歌う。「酔えば酔うほど、色っぽく乱れる。乱れながら、男を誘う。それが彼女の本性なのかもしれない」と分析しながら、彼女の色香に吸い込まれていく自分がいる。
心地よい気分になった。同時に眠くなってきた。時計を見ると、もう十二時近い。店が閉まる時間である。慌てて精算しスナックを出た。
月明りの下でケイの顔を見た。まるで子供のような笑顔である。昼間、見せたこともない、男を誘うような顔だ。顔を近づけてきて、「ねえ、キスをしてくれる?」と囁く。
切なそうな目で見つめている。慌てて周りを見た。路地裏で、誰もいない。キスをしたい衝動がこみあげてきたが止めた。数か月前に起きた事件を思い出したからである。歓迎会の席で酔った女子社員にキスをされた男性社員が同じようにキスをやり返したら、翌日、セクハラで訴えられたのである。つまらないことで躓いて、会社人生を台無しにしたくなかったので、「この次ならいいよ」とかわした。
「そうね」とケイは寂しそうに呟いた。
翌日、仕事を頼むためにケイを呼んだ。彼女は何もなかったように話を聞いた。酔って乱れた時の色っぽい姿を想像できないほど、無表情である。狐につまれたような気分だった。
終業後、ケイが近寄ってきて、耳元で、「また誘ってください」と囁いた。
三日後、スナック『K』に一人で入る。
ママが隣に座る。
「この前、一緒に来た、あの女はやめた方が良いわよ。あなたに似合う女は私よ」
「どうして?」と聞くと、
「美しい顔をしているけど、あれは男を食らう獣よ。美しい顔と声で男を騙すの。いつか、あなたは食われるの。かわいそうで見ていられないのよ」
「どうして、そんなことが言える?」
「バカな男を何人も見てきたから。この前、来たとき、あまりにも近過ぎた。まるで今にもセックスするような雰囲気だった」
「それは言い過ぎだろ」
「いいえ。ああやって、女は甘く囁くの。囁きながら騙すのよ。あなたも囁かされたはずよ」
「忘れたよ」
「覚えているくせに、忘れたなんて」とママは大笑い。
「ところで、俺も騙されるバカな男の一人か?」
「間違いなくそうよ。あなたの頭を叩いたら、『バカ』という音がするはずよ」とママはまた大笑い。
ママ以外の女に言われたなら、怒りを爆発させていただろうが、ママだったので、怒る気になれなかった。
「私には分かるの。同じ女だから。あの女はじっとあなたを狙っていたの。分からない?」
「きれいな女に食われるなら、本望さ。『わが屍は獣に施せ』と一遍上人は言ったが、俺も似たような心境だよ。喜んで、美しい獣どもに、この体を提供するよ」
「バカね」とママは呆れる。
ママは今日もご機嫌だ。ご機嫌になると、同じことを何度も繰り返す。きっと痴呆症が始まっているせいだな。
「あなたに合うのは私よ。分かる?」とママが言う。
「分からない。でも、裏と表の関係みたいで、似ていないけど、意外と非常に近い関係かもしれないな」と応える。
ママは「そうよ。やっと分かったの」と言う。
それを聞いていたママの娘が言う。
「秋川さん、二股はダメよ。どっちか一つにしなきゃ」
「彼女と一緒になる気はないし、ママに惚れる気もない。どうせなら、ミキちゃんと一緒になる」とおどけると、ママが「そんなのだめよ。許さない」と笑う。
二十年後、いや、三十年後には、ケイもこうなるのかと思いながら、笑い続けるママの顔を眺めた。もっとも、その頃には互いにどこで、どう暮らしているか分からない関係になっているだろうが。
作品名:トカゲを食らうホトトギス 作家名:楡井英夫