黒闇抱いて夜をゆく 前編 探偵奇談7
王子の特別
朝練にはいつも一番にやってくるのは日課になっている。別に主将だからそうしなければならないということもないのだが、一人静かに弓を引く時間が必要だったからだ。伊吹には、考えることが山ほどある。主将としての役目、部の今後、自身の将来、瑞とのこと。そのいろいろを頭の中から一瞬だけ追い出せるのは、弓を引くそのほんの数分だけ。自身の心を整理するために。一日の始まりに弓を引くことに、大きな意味があった。
「一之瀬か?」
一番乗りだと思っていたが、制服姿の郁が弓道場の玄関前に座り込んでいるのを見つけて驚く。
「おはようございます」
「おはよう。どうした?」
射形を崩している彼女の表情はすぐれない。小柄な彼女が、今日は一層小さく見える。落ち込んでいるなと、心配だった。
「主将…わたし、いま気持ちが焦っていて…今日は部活をお休みさせてほしいんです」
静かな声で、郁は言った。
「離れたところで、弓と向き合ってみたいんです…だから…」
「うん。それがいいと思う」
離れてみるというのは有効だ。いまの郁には。躍起になったところで悪化するだけだと思うし、自身の経験上、焦らず、気楽に構えているのがいいということを知っている。
「すみません」
「また引いてみようって思えたら来ればいいからな。見学だけでもいいし」
「…はい、ありがとうございます」
郁はぺこりと頭を下げる。早気に悩み、そのまま部を去った先輩や同級生もいた。だけど郁は戻ってくるだろうと思う。これまでの頑張りを見て確信していた。このまま諦めることは、彼女にとって難しいだろう。去っていく小さな背中を、伊吹は黙って見送る。
「大丈夫ですよ、あいつなら」
気が付くと、いつの間にかそばに瑞がいた。制服姿だ。彼もいま来たらしい。
作品名:黒闇抱いて夜をゆく 前編 探偵奇談7 作家名:ひなた眞白