拝み屋 葵 【参】 ― 西海岸編 ―
* * *
「クロウ先生と知り合いだったのね」
マリオンは、トマトとレタスのサンドイッチを手の中で遊ばせたまま、葵の返事を待つ。
「残念ながら、個人的な知り合いやねん。残念ながら」
マリオンはわざわざ日本食が食べられる店を選んだのだが、葵が手にしているのは“チョリソ”である。
「何を話したの?」
「歓迎会してくれはるんやと」
「あら、ステキじゃない。私も寮の皆と葵の歓迎会を開こうとは思ってたのよ。でも予定が合わなくて」
「そないに気ぃ使わんといてな」
数人の学生がマリオンに声を掛けて通り過ぎた。葵はその間にチョリソを頬張り、薄焼きパンの間から伝わる唐辛子の刺激に顔をしかめた。
日本ではメキシコ料理として知られているチョリソだが、実際はスペインから伝わった料理であり、スペイン料理である。
日本で紹介されたのが唐辛子を使うメキシコのものであったため、“チョリソ=辛い”という認識が持たれている。
チョリソが赤いのはパプリカを使用しているためであって、決して唐辛子の赤ではない。チョリソは“辛いソーセージ”ではないのだ。
「黙っていようと思ったのだけれど、やっぱり無理だわ」
神妙な面持ちで口を開いたマリオンに、葵はチョリソに向かう二口目を中止する。
「葵が入った部屋、前に住んでいたコが自殺しているの」
「せやから誰も入りたがらへんかってんねや」
「理由が分からないの。それだけじゃない、二人とも同じ日に飛び降りてる。だから、あの部屋に何かがあるんじゃないかって」
「いまのところ、ウチはピンピンしてまっせ」
「午後の講義の準備があるから」
葵は笑って見せたが、マリオンは暗い表情のまま席を立った。
「おおきに」
申し訳なさそうに笑ったマリオンの背中を見送った葵は、しばらくその場に留まって、ひっきりなしに出入りする人々を眺めていた。
「さてさて、どないしたもんかいな」
葵は自身を監視する視線を感じていた。敵意とまでは行かないものの、友好的なものではなく、物珍しさによる好奇心の視線でもない。学生と職員を合わせた数万人が利用する学内施設で、季節外れの編入生を見分けられる者が存在するかと言えば、それは“No”だろう。
「三つ目、やな」
葵は、残ったチョリソを口に放り込んで、その辛さに悶絶した。
ソフィア・クロウの研究室は、教授もおらず、助手となる院生もいない。それでは研究室として成り立ちはしないのだが、大学が研究室に回している予算は雀の涙にも満たない額であり、場所を提供しているに過ぎない。
常温のエスプレッソによる歓迎を受けた葵は、見るからに高級家具であるソファーの上で肩身の狭い思いをしていた。
「LAには私が居るのに、なぜ葵が来なければならないの?」
「いやー、ウチかてそう思たんですけど、ほら、お忙しい身ですやんか? またどこぞへ飛んではるんやとばかり」
「嘘でしょ」
「です」
ソフィアは、ため息を隠そうともしない。
「あの人にも困ったものね」
“あの人”が誰のことであるのかは、言わずもがなである。
今回の渡米は、十中八九は罠であろうと予測できていた。尻尾を掴むために罠と知りつつ飛び込んだに過ぎない。敢えて親交のあるソフィアがいるUCLAを舞台に選んだのは、捏造した証拠を使って仲違いさせるための策謀であったのだ。
依頼が罠でなかった場合は、今までと同じく、葵の経験値が上がるだけのこと。何の損失もない。
「やられたらやり返すんが流儀ですによって」
「相変わらずの悪魔主義ね」
悪魔主義(サタニズム)とは、決して利己的快楽主義のことではない。悪魔主義者(サタニスト)には、『殴られたら我慢せずに殴り返せ』その代わり『自分からは攻撃してはいけない』という意味合いのルールがある。これは、陰(受動)があって陽(能動)がある陰陽道に通ずるものである。自分と他人を同じように尊厳を持って捉える個人主義でもある。
「そりゃ、おおきに」
「誉めたのよ?」
「せやから、おおきに」
葵はエスプレッソを飲み干す。溶け残った砂糖がコーヒーカップの底に残っている。砂糖を溶けきれないほど加えるのが、イタリア流のエスプレッソの愉しみ方だ。
「それで、現状はどうなの?」
「生け捕りにしたりました。安全なところで匿ってます」
「どこ?」
「“安全なところ”ですわ」
ビシリ、と音を立てて、研究室の空気が凍りつく。
『私が聞いているのに答えられないの?』という殺気にも似た感情が込められた視線が、葵に向けて発せられている。
蛇に睨まれた蛙とはこのことだ。
「ま、いいわ」
ソフィアは、空になったコーヒーカップをくねくねと動かして、溶け残った砂糖を集めていた。
「私にちょっかいを出してきた連中も締め上げてあるわ。葵が私を暗殺しに来たんだって言ってたわ。そう白状するように命令されているってミエミエで、可笑しかったわ」
恍惚とした表情で何かを思い浮かべるソフィアに、葵は若干の寒気を覚える。
ソフィアの過去について、葵は何も聞かされていない。知っているのは、幼い頃は“聖女”と呼ばれていたことと、その名で呼ばれなくなった原因が葵の師匠に起因しているということだけだ。
それを知ってから、葵は気まずさを感じている。
「もう一杯いかが?」
ソフィアは葵の返事を待たずに立ち上がる。
室内に響くエスプレッソマシンの作動音が、この場にいるのが二人だけであるという状況を再認識させる。
「けったいなもん装備してはったんですわ」
葵は昨夜の状況をすべて話した。
昨夜、葵を狙った刺客の片割れである狙撃手は“L96A1”と呼ばれる、かつてイギリス軍で正式採用されていた狙撃銃を所持していた。
L96A1は、イギリスのアキュラシー・インターナショナル社で開発されたボルトアクション式のスナイパーライフルであり、その銃口から発射される七・六二ミリNATO弾は、防弾ガラスをも打ち抜く威力を持つ。車のフロントガラスを防弾にしたところで、このライフルと銃弾の前には意味を成さないのだ。
このライフルは、日本ではサイレンサーという名称で知られるサプレッサーを装備し、使用する弾薬を亜音速で飛ぶサブソニック弾に換装することで、優れた消音性能を発揮する。
銃声(発射音)は、ガンパウダーが発生させた燃焼ガスが銃口から漏れ出る際に発生する音と、発射された弾丸が音の壁にぶつかった際に発生する音であるので、サプレッサーのみで銃声を完全に消すことは不可能である。尚、リボルバー式の拳銃にサプレッサーを装備しても、ほぼ意味はない。
「レミントンではなかった?」
ソフィアが言うレミントンとは、レミントンM700(Mはモデル)という、アメリカの警察や陸上自衛隊が使用している狙撃銃である。
「なんやったら、現物をお見せしてもええですよ?」
「呆れた……学内にそんなもの置いたままにしてるなんて」
「役に立つかと思いましてん」
葵は、にっと白い歯を見せて笑った。
「クロウ先生と知り合いだったのね」
マリオンは、トマトとレタスのサンドイッチを手の中で遊ばせたまま、葵の返事を待つ。
「残念ながら、個人的な知り合いやねん。残念ながら」
マリオンはわざわざ日本食が食べられる店を選んだのだが、葵が手にしているのは“チョリソ”である。
「何を話したの?」
「歓迎会してくれはるんやと」
「あら、ステキじゃない。私も寮の皆と葵の歓迎会を開こうとは思ってたのよ。でも予定が合わなくて」
「そないに気ぃ使わんといてな」
数人の学生がマリオンに声を掛けて通り過ぎた。葵はその間にチョリソを頬張り、薄焼きパンの間から伝わる唐辛子の刺激に顔をしかめた。
日本ではメキシコ料理として知られているチョリソだが、実際はスペインから伝わった料理であり、スペイン料理である。
日本で紹介されたのが唐辛子を使うメキシコのものであったため、“チョリソ=辛い”という認識が持たれている。
チョリソが赤いのはパプリカを使用しているためであって、決して唐辛子の赤ではない。チョリソは“辛いソーセージ”ではないのだ。
「黙っていようと思ったのだけれど、やっぱり無理だわ」
神妙な面持ちで口を開いたマリオンに、葵はチョリソに向かう二口目を中止する。
「葵が入った部屋、前に住んでいたコが自殺しているの」
「せやから誰も入りたがらへんかってんねや」
「理由が分からないの。それだけじゃない、二人とも同じ日に飛び降りてる。だから、あの部屋に何かがあるんじゃないかって」
「いまのところ、ウチはピンピンしてまっせ」
「午後の講義の準備があるから」
葵は笑って見せたが、マリオンは暗い表情のまま席を立った。
「おおきに」
申し訳なさそうに笑ったマリオンの背中を見送った葵は、しばらくその場に留まって、ひっきりなしに出入りする人々を眺めていた。
「さてさて、どないしたもんかいな」
葵は自身を監視する視線を感じていた。敵意とまでは行かないものの、友好的なものではなく、物珍しさによる好奇心の視線でもない。学生と職員を合わせた数万人が利用する学内施設で、季節外れの編入生を見分けられる者が存在するかと言えば、それは“No”だろう。
「三つ目、やな」
葵は、残ったチョリソを口に放り込んで、その辛さに悶絶した。
ソフィア・クロウの研究室は、教授もおらず、助手となる院生もいない。それでは研究室として成り立ちはしないのだが、大学が研究室に回している予算は雀の涙にも満たない額であり、場所を提供しているに過ぎない。
常温のエスプレッソによる歓迎を受けた葵は、見るからに高級家具であるソファーの上で肩身の狭い思いをしていた。
「LAには私が居るのに、なぜ葵が来なければならないの?」
「いやー、ウチかてそう思たんですけど、ほら、お忙しい身ですやんか? またどこぞへ飛んではるんやとばかり」
「嘘でしょ」
「です」
ソフィアは、ため息を隠そうともしない。
「あの人にも困ったものね」
“あの人”が誰のことであるのかは、言わずもがなである。
今回の渡米は、十中八九は罠であろうと予測できていた。尻尾を掴むために罠と知りつつ飛び込んだに過ぎない。敢えて親交のあるソフィアがいるUCLAを舞台に選んだのは、捏造した証拠を使って仲違いさせるための策謀であったのだ。
依頼が罠でなかった場合は、今までと同じく、葵の経験値が上がるだけのこと。何の損失もない。
「やられたらやり返すんが流儀ですによって」
「相変わらずの悪魔主義ね」
悪魔主義(サタニズム)とは、決して利己的快楽主義のことではない。悪魔主義者(サタニスト)には、『殴られたら我慢せずに殴り返せ』その代わり『自分からは攻撃してはいけない』という意味合いのルールがある。これは、陰(受動)があって陽(能動)がある陰陽道に通ずるものである。自分と他人を同じように尊厳を持って捉える個人主義でもある。
「そりゃ、おおきに」
「誉めたのよ?」
「せやから、おおきに」
葵はエスプレッソを飲み干す。溶け残った砂糖がコーヒーカップの底に残っている。砂糖を溶けきれないほど加えるのが、イタリア流のエスプレッソの愉しみ方だ。
「それで、現状はどうなの?」
「生け捕りにしたりました。安全なところで匿ってます」
「どこ?」
「“安全なところ”ですわ」
ビシリ、と音を立てて、研究室の空気が凍りつく。
『私が聞いているのに答えられないの?』という殺気にも似た感情が込められた視線が、葵に向けて発せられている。
蛇に睨まれた蛙とはこのことだ。
「ま、いいわ」
ソフィアは、空になったコーヒーカップをくねくねと動かして、溶け残った砂糖を集めていた。
「私にちょっかいを出してきた連中も締め上げてあるわ。葵が私を暗殺しに来たんだって言ってたわ。そう白状するように命令されているってミエミエで、可笑しかったわ」
恍惚とした表情で何かを思い浮かべるソフィアに、葵は若干の寒気を覚える。
ソフィアの過去について、葵は何も聞かされていない。知っているのは、幼い頃は“聖女”と呼ばれていたことと、その名で呼ばれなくなった原因が葵の師匠に起因しているということだけだ。
それを知ってから、葵は気まずさを感じている。
「もう一杯いかが?」
ソフィアは葵の返事を待たずに立ち上がる。
室内に響くエスプレッソマシンの作動音が、この場にいるのが二人だけであるという状況を再認識させる。
「けったいなもん装備してはったんですわ」
葵は昨夜の状況をすべて話した。
昨夜、葵を狙った刺客の片割れである狙撃手は“L96A1”と呼ばれる、かつてイギリス軍で正式採用されていた狙撃銃を所持していた。
L96A1は、イギリスのアキュラシー・インターナショナル社で開発されたボルトアクション式のスナイパーライフルであり、その銃口から発射される七・六二ミリNATO弾は、防弾ガラスをも打ち抜く威力を持つ。車のフロントガラスを防弾にしたところで、このライフルと銃弾の前には意味を成さないのだ。
このライフルは、日本ではサイレンサーという名称で知られるサプレッサーを装備し、使用する弾薬を亜音速で飛ぶサブソニック弾に換装することで、優れた消音性能を発揮する。
銃声(発射音)は、ガンパウダーが発生させた燃焼ガスが銃口から漏れ出る際に発生する音と、発射された弾丸が音の壁にぶつかった際に発生する音であるので、サプレッサーのみで銃声を完全に消すことは不可能である。尚、リボルバー式の拳銃にサプレッサーを装備しても、ほぼ意味はない。
「レミントンではなかった?」
ソフィアが言うレミントンとは、レミントンM700(Mはモデル)という、アメリカの警察や陸上自衛隊が使用している狙撃銃である。
「なんやったら、現物をお見せしてもええですよ?」
「呆れた……学内にそんなもの置いたままにしてるなんて」
「役に立つかと思いましてん」
葵は、にっと白い歯を見せて笑った。
作品名:拝み屋 葵 【参】 ― 西海岸編 ― 作家名:村崎右近