運命に導かれて
「そうか」と吾郎は呟いた。
「あなたの好みと違うことも知っている。でも、私は好きなの」と美雪は続けた。
「嫌いならはっきり言って欲しいの」
「今夜は金曜日の夜だ。そんな話は止めよう」
「そうね……でも」と美雪が話を続けようする出鼻を挫いて、
「止めよう」と吾郎は強い口調で言った。
「もう雨は止んだわ。店じまいよ。美雪を送っていってよ。だいぶ酔っているみたいだから」
「そうしてよ」と美雪は吾郎に抱きついた。
しばらくすると、美雪の吐息が聞こえてきた。美雪の肩を揺すった。しばらくして眼を覚ました。
「どこか連れてってよ。面白いところに」
「そんなところはどこにもないさ」と吾郎は吐き捨てるように言った。
「閉店だ。行こう」と男が立った。
美雪は虚ろな眼差しで、「どこへ?」
男は答えずおもむろに歩きだした。美雪も立ち上がり、その後を追った。店を出た。美雪は危なっかしい足取りだった。吾郎は立ち止まり、美雪の肩を抱えた。なんともいえない淡くて香りのいい香水の匂いがした。そして、重くはない女の重みも感じた。
「私たちは終わるの?」
「分からない」と言った。
美雪は吾郎の耳元で囁いた、「ねえ、どこへ行くの?」
「帰るだけさ」
「帰るだけ?」と聞き返した。
「そうさ。帰って、一緒に寝よう」と呟いた。
すると、美雪は嬉しそうにうなずいた。
美雪は相変わらず寄り掛かっていた。吾郎は不思議な重さを感じた。そして、たぶんこの重みだけが、自分という頼りない存在を証明しているように思えた。同時に愛おしさも。
部屋は綺麗に片付いていた。洗い物も、洗濯物も転がっていない。寝室もきれいだ。
吾郎は美雪をベッドに横たえると、下着姿にした。淡いピンク色の下着だった。胸は思ったよりもずっと大きい。ブラジャーを少しはずしてみた。淡いピンク色の乳頭が見えた。その乳頭を口に含んでみた。美雪はくすぐったそうに背を向けた。
吾郎はそっと布団をかけ寝室を出た。
翌朝、美雪は目覚めると、下着姿の自分を発見した。すぐに吾郎が連れてきてくれたことを悟った。そして何もされていないことが分かった。あらためて吾郎のことが好きになった。美雪を今まで愛してきた男たちは紳士の仮面を被った獣みたいな男たちだった。それも自分だけ気持ちよければいいというセックスしかなかった。でも、吾郎は若い女の肉体を貪るような真似をしない。吾郎が何もしなければしないほど、美雪の恋心が募っていた。それはちょうど水滴が少しずつ落ちてコップの中に貯まっていくようなものだったが、もう既にあふれんばかりに貯まっていた。
美雪はベッドに身を横たえながら、昨日の吾郎のことを思った。途中、おぶってくれた。その背中の温かさ。その温かさを思ったとき、気持ちが高ぶった。そして、密やかなところに手を当ててみた。微かに濡れていた。
美雪がクラブに勤めて三か月が過ぎた。言い寄る男たちはたくさんいた。けれど、美雪はどの男の誘いにも乗らなかった。ただ吾郎からの誘いを待った。しかし、吾郎はあれ以来店に顔を出さなかった。
『どうして来てくれないの』と吾郎にメールをした。
数日後に『今は忙しくて行けない』と返信がきた。
忙しいのは事実だった。だが、会いに行けないというのは嘘だった。いや、昔なら仕事を止めても行っただろう。歳のせいなのか。自分の中にずっと覚めたもう一人の自分がじっと自分を見ているのだ。そしていつもこういう。『無駄なことは止めとけ!』と。だが、美雪と出会ってから、もう一人の自分の影が薄くなっていることに気付き戸惑っている。そして、仕事中に、ふと、美雪の顔が浮かんできたりした。恋かもしれないと思った。同時にそれがいかに愚かで馬鹿げていることかも気づいた。この思いを消し去るには会わないのが一番だとも思った。
美雪からの誘いのメールも何度か断っていると、さすがに誘いの頻度が減ってきた。
バーに行かなくなって一か月が過ぎた。美雪からの誘いのメールも来なくなった。もう自分に関心がないだろうと吾郎は思った。しかし、それは間違いだった。美雪の吾郎への恋慕の情は会わなければ会わないほど募っていったのである。昔、美雪に自分で自分を慰める方法を教えてくれた男がいた。その男が言った方法で、美雪は夜毎、吾郎を求めていた。記憶になる吾郎の微かな匂い、背中の温もり、手の大きさ……それらが重なり合って、美雪の心の中に吾郎という名の男を作った。永遠に朽ちることのない理想の男を。
美雪から夜中にメールが届いた。バーで撮った写真が添付してあった。
『来てくれないから寂しい。泣いちゃう』と書いてあった。
子供みたいな書き方だ。それが素直な表現なのか、それとも計算された表現なのか、吾郎には分からなかった。どっちでもいいと思った。添付してあった写真を見たとき、ベッドで密かに美雪の乳首を含んだのを思い出した。すると、妙な懐かしさを覚えた。そうだ、美沙の乳房やヒンズーの寺院の乳房にそっくりだった。
――学生の頃、当時、吾郎は母を失った悲しみから立ち直ろうとして東南アジアを旅した。ジャワの島のヒンズー寺院に行ったときのことだった。
寺院の中は外の暑さとは打って変わってひんやりとした冷気を感じさせた。昼間でも薄暗く、歩く足音が妙に耳に響いた。寺院の奥に霊水浴場があった。そこは静謐として、至るところで、緑の苔が覆っていた。過ぎた時間の長さを物語っていた。浴場の壁には、品のなる顔立ちをしながらも柔らかな笑みを浮かべるヴィシュヌ神の妻の一人ラクシュミーの裸体像が彫られていた。飾ることも気取ることもなく、聖なる水を乳首から流している。何かが稲妻のように吾郎の体を貫いた。探し求めていたものがここにあった。聖と俗を結びつけるもの。それは崇高な思考ではなく、高邁な思想でもない。優しく柔らかく包みこむ女神の乳房だった。恐る恐る近づき、女神が差し出す乳房からあふれる水を飲んだ。不思議な感動が彼を襲った。そうだ、彼は欲していた。女神のような女性を。
ある時、美沙と愛し合った後、乳房をずっと見ていた。
美沙は不思議がって、「どうして、そんなに見るの?」
「とてもきれいだ。お椀の形をしている。一年前東南アジアを旅したときも同じおっぱいを見た。ヒンズーの寺院に入ったときだ。女神像があって、その乳房から水が出ていた。乳房は生命を支える象徴だ。同じだ」と言った後、触れた。
「吾郎はおっぱいフェチなのね」と美沙は笑った。
「私も触られるのが好きよ」と美沙が言った。――
美雪が吾郎の心を少しずつ癒した。そのことに気づいたからこそ、吾郎は会うことに臆病になっていた。
『どうして会ってくれないの? だって、私を守るって、お母さんと約束したでしょ』というメールが届いた。文字の最後に泣いている動物の絵がついていた。熊なのか、それとも黒い犬なのか判別できずなかった。
『メールの最後の絵の動物は熊か?』と書いてメールした。すぐに返信が来た。
『クマで正解です』
『熊は君か?』
『そう、今、クマさんは泣いているのよ』
会社を出た後、バーを訪ねた。
美雪のはしゃぎようは異様だった。誰もが、美雪が吾郎に恋していると思った、当の本人が一番驚いた。あまりに喜びように。