運命に導かれて
「他の人ならセクハラで訴えるけど。吾郎さんは別よ。……そう、実をいうと、私の子じゃないの。姉の子なの。この前、本人にも話した。姉はひどいところに嫁いだの。何でも名家という評判だったけど、姉を奴隷のようにこき使った。旦那もひどい男だった。平気で殴った。姉は精神を病み、発狂寸前のところで嫁ぎ先を飛び出し、まだ一歳の娘を私に預け、一か月後に自殺した。遠い昔の話よ。向こうの家は跡継ぎとして資格を持つ男の子しか興味がなく、姉が産んだ娘はいらないと言った。だから私が引き取って育てた。自分の娘のように育てた。でも、私は何もかも違うの。あの子は賢くて勉強好き。清楚で気品に満ちた美しさ……まるで姉の生き写し。昔、あなたが愛した人にも似ている。体の線なんかそっくりでしょ。そして瞳も。なぜ、知っているかって? あなたの部屋を訪れたとき、伏せてあった写真たてを見たの。美沙さんと言ったかしら? 瞳も体の線も美雪にそっくりだと分かった。だから、あなたが好きになっても少しもおかしくはないと思った。何だか、ジェラシーみたいなものを感じて、ずっと会わせなかったの」と沙織はまた微笑んだ。
「それは杞憂だ。あまりにも歳が離れている。何もかも離れ過ぎている。価値観も何もかも」と吾郎が笑った。
「そうかしら? 男と女の関係は不思議なものよ。価値観が違っていても、生きた世界が違っていても、歳が離れていても、心が共鳴したとき、どんな壁も乗り越えられることがある。それが愛よ」
「そうかもしれないが、遠い昔、どこかで忘れてしまった」
「私は違う。ずっと、あなたを愛してきた」と沙織が呟くと、疲れたのだろうか、目を閉じ、すぐに微かな寝息を立てて眠った。
美雪が病室に入ってきた。吾郎はあらためて美雪を見た。懐かしいものを感じた。
「顔に何かついている?」
「いや、何も……」
翌日、吾郎は沙織の容態が悪くなったという連絡を美雪が受け会社を休んだ。
病院に駆けつけると、沙織は個室に入っており、美雪がずっと付き添っていた。
吾郎は「少しは休め。俺が代わってみてやる」と美雪を休ませた。
時折、沙織の目がここではない、どこか遠くを見ているのに気付いて、その度に、吾郎は、「どうした?」と声をかけたが、彼女は何も答えず、表情も変えなかった。
その日はずっと眠っていた。
帰ろうとしたとき、沙織が目覚めた。
「ずっと、そばにいてくれたの?」
「そうでもないさ」と吾郎は照れ臭そうに言った。
「会社は大丈夫なの?」
「会社なんかどうでもいいさ。それに俺がいなくとも、どうにもなるさ」
「クビになったら、どうするの?」
「かまわない。クビになっても生きていけるだけの金は貯めたさ。そう、南の国に行けるくらい?」
「いいわね。私はここで死ぬ。あなたは南の国に行くのね。あたしも一緒に行きかった。でも、こんなオバサンじゃ、嫌だよね」
「かまわない。一緒に行こう」
「私が元気なときに誘ってほしかった。今じゃ無理……」と背を向けた。
泣いているのが分かった。
吾郎は「泣くなよ」と肩を揺すりながら言った。
「優しくしないでよ……別れが辛くなるから……お願いがあるの」
「なんだ?」
沙織は起き上がった。
「美雪の面倒を見てほしいの」と吾郎の手を握り頼んだ。
「私には、他に頼む人がいないの」と涙ぐんだ。
「あの子はずっと私の嫌な面ばかりみてきた。だからいつも反発した。私もつい生意気な口を利くあの子を何度も罵った。本当はとてもかわいいのに……私が死んだら、あの子は誰も頼る人がいないから、あなたに頼みたいの。昔、『お父さんはどんな人?』とよく聞かれた。そしたら、あなたの顔や姿が思い浮かんだから、あなたのことを言った。最後にいつも、『 あなたのお父さんは強い人で、一匹オオカミで誰とも群れない人なの』と言った。この前、美雪が言った。『吾郎さんは私のお父さんなの?』と聞いた。『残念だけど違う』と答えたら、『良かった』と言うの。『どうして?』と聞いたら、『お父さんとだったら、好きになれないから』と答えた。きっとあなたのこと、好きなのよ」
「馬鹿なことを言うなよ。自分の娘みたいな女を愛せるものか。それに君と少なからず血がつながっている」
「私が生きていたら、きっと許せない。でも、死んだら……何もかも許せる。むしろ、美雪を守ってくれるなら、嬉しい。あの子はきっと心のどこかで父親を求めているような気がする。今まで好きになった男はみんな年上だったから。でも、単純に年上というわけじゃないのよ。知的で誇り高くて夢があって。あなたの心に空いた穴は埋められないかもしれないけど」
「このままでいい。変わりたいとは思わない?」
「変わりたいと思わないの? あなたは言ったわ。『脱皮しない蛇は死ぬだけだ』と。確かニーチェの言葉だったよね」
「よく覚えているな」
「もう、昔の殻を脱ぎ捨ててもいいかもしれないわよ」
「余計なお世話だ。俺は変わらない。それで死ぬならかまわないさ」
「田舎の墓はどうするの?」
「なるようになるさ。ならなければ、草木に覆われるだけだ。それもまた運命だろう」
橋本部長が吾郎を捕まえて言った。
「最近、休みがちのようだが、何かあるのか? 何なら、相談に乗っていいぞ」
「気持ちはありがたいが、余計な世話だ」
橋本部長が笑った。
「ずっと変わらない。もう二十年も……変わらないから、出世もできない」
「出世を望むなら、こんな会社にはいない」
「一匹オオカミか……若い頃、そう言った。俺よりずっと優秀だった、お前はその言葉どおり群れずにいた。俺は風見鶏のように常に強い派閥に入った。だから、俺は部長。お前はエキスパートという形式だけの肩書を持つ平社員。最後までそのスタンスを変えないのか?」
「変える必要はあるのか?」
橋本は笑った。
「ないよ。今のままでいい。続く限りは」
吾郎は沙織のそばにずっとついていたかったが、あっという間にこの世を去った。吾郎と美雪が最期を看取った。
病室を出て、二人で話した。
「お母さんが死んだ。どうしたらいいか分からない?」と泣き崩れた。
「面倒見てくれと頼まれたから、出来る限りのことはする」と言うと、
「嬉しい」と言って抱きついた。あまりの唐突なできごと吾郎が慌てた。
「何ができるか分からないが」
「そばにいるだけでいい。私を支えて」
「そばにいるだけいいのか?」
深い意味はなかったが、美雪は答えなかった。
沙織のマンションは吾郎のオフィスから車で三十分くらいのところにあった。互いに私生活を侵さないという約束だったので、十年間、一度もマンションを訪れたことはないが、美雪が「遺品の整理を手伝って」というので、葬儀が終わった一週間後、沙織のマンションに訪れた。
吾郎が部屋のドアを開けると、目の前に美雪の顔があった。看護しているときとは別の顔があった。深い悲しみにくれた顔ではあったが、美しい気品のようなものがあった。何よりも美しい瞳をしている。その美しい瞳に釘点けになった。懐かしいものを感じ、いつしか吸い込まれてしまった。……瞳の奥に美沙を感じた。
「何か、顔についている?」
「いや、何もついていない」と吾郎が慌てて否定すると、美雪が笑った。
「何がおかしい?」