運命に導かれて
「私たちの関係はセックスだけ? 違うでしょ?」と哀願するような目で吾郎を見た。
吾郎はその意味が分からず、沙織を見つめた。
「食事をしたり、映画も観たりした。そういった時間を共有できたから幸せだった。少なくとも私はそうよ。でも、あなたには仕事があったわね。きっと優秀だったから生きてこられたのね」
「仕事で、心が満たされたことはなかった。君と感じているときだけ生きていることを実感できた」
「嬉しいことを言ってくれるのね。もっと早く言ってほしかった。そんな話は聞くのは切ない」
沙織はまた背を向けた。
「ずっと、自分を本当のことを言わずにいた。すまないと思っている」
「割り切った関係だもの。当然よ」
「そんな言い方は止めてくれ」
「男運が悪かったから、あなたと出会ったときはもう結婚に夢をなかった。ただ一時、楽しければよかった。でも、ある時、気付いたの。一番、愛していたのは、あなたって。でも、言えなかった」
「母が死んだとき、心に大きな穴が開き、俺の時間が止まった。それが美沙に出会い愛したあったおかげで、心の穴が塞がり、止まっていた時間が動き出した。結婚して、子供ができて、幸せが永遠に続くと思ったとき、美沙も子供も事故で亡くした。再び、心に穴が開き、時間も止まった。もう人は愛さないし、愛せないと思った。ただ、実家の墓を守るために生きようと決心だ。それが自分の使命だと思っていた。だが、生きていても面白くない。だからとって、死ぬ勇気もない。墓守のために生きるというのは口実に過ぎない。ただ単に死ぬのが怖いだけかもしれない。それでも、お前がいるから生きてこられた。お前と出会う前、よく恐ろしい夢を見た。大きな穴に落ちるとか、車にひかれるとか。それが嫌で毎晩、飲み歩いた。深夜、鏡を見ると、泣いているように見える」
「あら、今日はずいぶんと弱虫なのね?」
「ずっと昔からそうさ。強がっていただけ。それも君がいたからできた」
数日後、美雪は吾郎に言った。
「医者からだめだと言われました。あちこちに転移して、手の施しようがないと」
淡々と語る美雪に吾郎は驚いた。
「不思議な話ですよね。母がずっと嫌いだった。父親も分からないと言うし、満足に字も読めない。そんな母を軽蔑してきました。高校時代、『こんな女のような生き方はしない』と思いました。早く離れて暮らすことを夢見ていた。でも、いざ、死に瀕すると、悲しくて、悲しくて……痩せていく母を見ているのがつらいんです」
吾郎が彼女の濡れた頬をそっと拭うと、彼の胸に泣き崩れた。彼女の頭が胸に乗った。軽やかな重みとともに甘い匂いを感じた。同時に懐かしさを感じた。その匂いが遠い昔の記憶を呼び起こした。そうだ、美沙と同じような匂いだ。それが吾郎の心を落ち着かせた……。気のせいであったかもしれないが。
入院して一か月が過ぎた。もう十月。暦の上ではもう中秋だ。ちょうど下り坂を転げ落ちるように、沙織の容態がひどくなっていった。
「ときどき夢を見るの」と沙織が吾郎に向かって言った。
「どんな夢だ?」
「初めて出会った頃とか、抱かれているときの夢よ。でも、最近は嫌な夢が多いの。ふと、夢の中で寝ているの。ふと、気づくと、何か物音がする。遠くから、少しずつ近づいてくる。何の音だろう。じっと耳を傾ける。あなたの足音だと気付いて、顔を上げると、あなたじゃないの。……寝てばかりいるといろんな夢をみてしまうの。夢と現実の区別がつかない。それが切ない」と涙を浮かべた。
窓の外を見た。もう月が出ている。漆黒の空に不思議なほど純粋な黄色の月だ。
「今日は月がきれいでしょ。あなたはよく月明かりで抱いてくれた」と沙織は微笑んだ。吾郎には、その笑みが痛々しかった。
「誰だっけ? 昔、あなたがよく言ってくれた詩人。その人が言った言葉をときどき思うの」
「リルケのことか?」
「そうよ。リルケよ。『男に心から愛された経験を持つ女は一生、孤独に苦しくことはない』という言葉。でも、それはあくまでも元気で生きているときのことだけね。そんな気がする。死ぬって、どういうことか、ようやく分かった。深い底に落ちていくようなもの。死は暗くて深い底よ。そこに向かって、急に落下していくんじゃない。ずるずると、少しずつ落ちていく。少しずつ。抵抗することができない。ただ落ちていく自分を感じるの。とても切なくて苦しいの。だから、気を紛らわそうと、あなたに愛されたことを一生懸命思いようにしている」と沙織は微笑んだ。
沙織が手を出した。その手を握った。まるで枯れた小枝のような手をしていた。沙織は目を閉じた。どうやら眠ったようだ。安らかな寝顔に吾郎は安堵した。
沙織は涙を浮かべて吾郎に言った。
「私が死んだら、また、他の人を愛するのね」
「何を馬鹿なことを言う。それにまだ死ぬと決まったわけじゃない」
沙織は首を振った。
「いいの。私には分かるの。もうじき、死ぬってことが。ふと、クリスマスの夜を思い出した。楽しかった。一緒にはしゃいで、一緒に歌った。でも、もう二度とないのね」
「そんなこと誰が決めた」と吾郎は真顔で怒った。
「いいの。でも、悔しいの。どうして、私はあなたの子供を作らかったのかと思うの。もし子供がいたら、きっと安らかに死ねたはずなのに。いつか忘れられ、やがて、誰からも思い出されない。私がこの世に生きたという痕跡は死んだ瞬間から消えていく……自分が産んだ子供がいたなら、この世に生きたという痕跡が残る。それを思うだけで、少しは気持ちが晴れる気がする」と沙織は泣いた。
「まだ死ぬと決まったわけじゃない。それに死ぬという事実は誰にも変わりない。子供がいようが、いなかろうが、同じだ」
「少しも慰めになっていない。でも、変な慰めよりはましよ。一度だけ、一緒に旅をしたことがあったわね」
「沖縄に行ったことか?」
「そうよ。夜が明けて、二人で海辺を歩いた。波打ち際を歩いたとき、あなたは言った。『人生というのは、この足跡のようなものだ。すぐに消える。時間という波が次々と訪れて、歩いた跡を消していく』と言った」
「三年前の話だな」と吾郎は微笑んだ。
「『私たちの新婚旅行よね』と言ったら、あなたは笑ったけど」
二人顔を見合わせて笑った後、吾郎は聞いた。
「ところで、美雪さんは誰の子だ? さっき、『自分が産んだ子供はいない』と言った」
「気になる?」
「気になる。初めから何となく気づいていた。似ているようだけど……どこか違う」
「たとえば、どこが?」
「体の形が違う。君はやせていて胸もお尻も小さい。でも、美雪さんは胸もお尻もどちらかというと大きい」
「よく見ているわね」と沙織は笑った。