運命に導かれて
都合のいい恋人役、互いにそう演じてきたつもりだった。それが永遠に続くと錯覚していた。乳房の半分を失った沙織を想像することはできなかった。もし抱くことができなくなったら……。
九月になっても、いっこうに涼しくなる気配はなく、むしろ残暑が厳しい。来る日も来る日も夏日が続いた。
そんなある日、吾郎は部長で同期入社の橋本浩司に横浜支社に来るように命じられた。入社した頃の二人は仲が良かったが、橋本が部長になってから疎遠な関係になっていた。
横浜支社はランドマークタワーにあり、二人は海に面した会議室にいた。窓からは海が見える。海は日差しを浴びて青く輝いている。
橋本は吾郎とは違って立ち回りがうまい。絶妙といっていいほどうまい。常に彼は強い派閥に属していた。そのかいもあって、同期では一番の出世頭だった。反対に吾郎は決して群れない性格であったために、有能であっても、役職の候補さえならなかった。だが、橋本は吾郎を高く評価した。評価した理由は、己の利益や保身で考えるのではなく、常に大局的見地でものを考える力あったからだ。それに技術力もあった。努力という言葉では表現できないものがあったのを、橋本は見逃さなかったのである。それゆえ、橋本は吾郎に金融業界のトップであるN社の基幹システム再構築の総責任者を命じたのである。
本来なら名誉なこととして受け取っていいはずだが、あまり乗り気ではなかった。沙織のがんになったという告白を聞いてから、会社を辞めたいという思いが起こったからである。
「吾郎、聞いているのか?」と橋本は言った。
吾郎は「聞いていない?」とぶっきらぼうに答えた。
吾郎の携帯が鳴った。
「電話か? 出てもいいぞ」
吾郎は携帯を見た。
「電話じゃない。メールだ」
沙織からだ。入院したというメールだ。
メールを読んで、吾郎は顔を曇らせた。入院することによって、沙織の死がより近づいてくる気がしてならなかったのである。
「最近変だぞ。何かあるのか?」
「確かに変だ。気が狂いそうだ」と微笑んだ。
吾郎は窓の外に目をやった。
「どうした?」
「会社辞めたい」
「おい、気は確かか? お前がいなくなったら、今回プロジェクトは成功しない」
「成功しようと、失敗しようとかまわない。その結果、くびになってもかまわない。どうせい独り身で身軽だ。それにそろそろ別の人生を考えていたところだ」
「第二の人生か? まだ、そんな歳じゃないだろ?」
「そんな歳だよ。周りを見ろ。病人だらけじゃないか。うつ病、メタボ、がん……」
「お前は健康だろ。今、少し顔色が悪いようだが」
「寝不足のせいかもしれない。それに女とやり過ぎだ」
軽いジョークのつもりで言ったつもりだったが、橋本は真に受け手を叩いて笑った。
「本当か? 羨ましい限りだ。どんな相手か。人妻か? 不倫なら、ばれたから左遷だぞ。止めとけ。場合によっては首を切られるぞ。だが、羨ましい。俺なんかずっとセックスレスだ。もう十年になる」
「そんなに?」と吾郎は驚いた。いや、驚いたふりをした、そうだ。いつでも、どこでも、彼は演じていた。あの日、心に大きな空いたときから。仕事の世界でも、彼は優秀なシステムエンジニアを演じた。だが、この仕事に喜びを感じたことは一度もない。仕事はシジフォスの神話を思いださせた。一つのシステム開発が終わると、また次のシステム開発を一から始めなければならない。いつになっても頂上にいられない。会社にいる限り、重い岩を丘の上まで押し上げるような作業を続けないといけない。家族を養うためとか、開発に喜びを感じる者は良いだろう。だが、そんなものがない吾郎には罰のようなものだった。会社にいる限り罰せられる。それでもかまわなかった。沙織が一緒に生きてくれるなら。だが、沙織まで死んだなら、その罰を受け続けられない。いや、生きていくことさえも。
「今日はもう帰ったらどうだ? 疲れているみたいだし。まあ、セックスはほどほどにしろ。若くはないんだし……」と橋本は笑った。
会社を早退すると、沙織が入院したという病院に駆け付けた。
沙織がベッドに横たわっていた。吾郎を認めると、彼女は起き上がり微笑んで迎えた。傍らに美しい娘がいた。
「娘の美雪よ」
吾郎はその美しさに息を飲んだ。聖母のような優しい表情をしていた。美しい体の線を描くワンピースを着ていた。絵にしたくなるような美しさである。吾郎は彼女の裸体を想像してしまった。
「美雪、前に話したことがあるでしょ。ずっと付き合っていた吾郎さんよ」
「どういう関係? 仕事の関係?」
「それよりももっと深い関係よ。大人の関係、遠い親戚みたいなものかしら。いいえ、同じ人生という学校で勉強をしている。いかに生きるべきかと」と沙織は笑った。
沙織はろくに学校には行かなかったが、人生という学校では、吾郎よりも深く学んできている。特に男と女に関しては。
「人生の学校? どういう意味だ?」
吾郎はわざとらしくしらばくれた。
「冗談よ。軽い。ねえ、美雪、コーヒーでも買ってきて」
美雪はうなずくと病室から消えた。
沙織が手を差し伸べた。痩せていた手がさらにいっそう痩せているように見えた吾郎は哀れに思い悲しい顔をした。
「どうしたのよ、そんな情けない顔して」
「そんな顔をされたら、私はどうすればいいのよ。笑ってよ。『悲しいときほど笑うのが、俺の哲学だ』と口癖だったじゃない」と沙織は涙を流し始めた。
互いに体だけの関係と割り切っていたはずだっただが、やせ衰えている姿を目の当たりにすると、愛おしさがこみあげてくるのを抑えることができなかった。
「悪かったよ。もう泣かないでくれ」と吾郎は沙織の頬から流れてくる涙を拭った。
「優しくしないでよ。こんなときは」と沙織は背を向けた。
「毎日、来てくれる?」と沙織は聞いた。
「できる限りそうする」
「そうして、あなたがいないと、独りで夜を迎えられないかも……。ふっと、そのまま死んでしまうのではないかという夢をみたりするの。おかしいわね。ずっと前から、歳をとる前に早く死にたいと思っていたのに、こうやって死に臨むと怖くて耐えられない。それに美雪を残して死ぬんだと思ったら」
吾郎は親しい人間の死を何度も見た。母、美沙、その度にもう二度とあんな辛いことを経験したくないと思った。けれど、そうはいかなかった。生きている限り、永遠に愛する人を見送るというのは続く。死に方は千差万別だが、パスカルが言うように、「人は死ねば土に帰るだけ」という事実は変わりない。肉体だけではない。心の中にある思い出も消えていく。何もかもが儚く消えていくのだ。
吾郎は美沙を失ってから、魂をなくした人形のように生きていた。ただ沙織と肌を重ねるときだけ、生きているということを実感できた。互いに自分をさらけ出さないまま生を確かめ合ってきた。
「私が死んだら、あなたはどうするの?」
「そんなことは考えられない。正直、君がいてくれたから、何とか生きることができた。いなくなったら、一緒に死ぬかもしれない」
「嬉しいけど、馬鹿なことを言わないでよ」
「馬鹿なことじゃない。君の温もりを感じることができたから、こんなつまらない世の中を生きてこられた」