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運命に導かれて

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仕事を終えた後の吾郎は真っすぐにマンションに戻らずに飲み歩いた。休日も、起きるとすぐにマンションを出た。部屋にいると、美沙のことがふいに思い出し、こみあげてくる悔しさや寂しさを抑えることができなかったである。
美沙を亡くして一年過ぎた休日のある夜、吾郎は横浜の港近くの川の水面を見ていた。街の明かりが揺れる波間に映っていた。そこに自分の明かりがないと思った。永遠に独りぼっちの夜が続く。そう思ったとき、いっそ川に飛び込んだ方が楽になれるのではないかと思った。だが、実家の墓のことをすぐに思い出した。その時である。背後からバヨリンの音が聞こえてきた。見ると、よれよれの服を着た、道化師みたいな年寄りが美しく華やかな響きのする音楽するバヨリンで奏でている。吾郎は何か引かれるように近寄った。
曲が終わると、「いい曲ですね。シューベルトですね」と称賛した。
「分かるかね」と老音楽家は彼を見て微笑んだ。
老音楽家の顔をじっと吾郎は見ていた。穏やかな顔している。相手も自分を見つめていることに気づくと、顔を赤らめた。
「いい曲ですね」
「二度も言うことはない。聞いたことをすぐ忘れるほど耄碌していない」
「そんなつもりで言った訳じゃないけど……」
「分かっているよ。でも、君は沈んでいるな。いい音楽を聴いた後は、そんな顔をするものじゃない。悩みがあるな?」
「こんなに暗いのに、分かります?」
「君が生まれる前からずっと人生を生きてきた。それに人の顔を見るのは得意だ。その上、ごらん、月が出ているだろ」とバヨリンの弦で指した。
いつしか雲の裂け目から月が顔を覗かせていた。丸い月だった。
「きれいな月だ。何か不思議な色をしている」
「今日は風がある。いつもスモッグで煤けているが、これが本来の色さ」
「神秘的で何もかも吸い込まれてしまう」
「それが月の魅力さ」
「ずっと小さい頃を想い出しました。失礼ですか、あなたに夢がありますか?」
老音楽家はあからさまに不機嫌な顔をした。
「君はこの俺が夢も希望もない哀れなおいぼれに見えるのかね? 君はただ恰好だけで全て判断するのかね?」
「いや、そんな……」と慌てて否定したが、老音楽家は「ふん」と鼻を鳴らしそっぽを向いた。
「いえ、そんなつもりでじゃ……でも、とてもいい顔しています。不思議です。とても、いい人生を歩んできたような、そんな満ち足りた人生が感じられて……」
「そうさ、満ち足りていた。夢も、今もある」
「今も?」
「そうさ。君にはあるかね?」
「いえ」
「趣味は?」
「何もありません」
「好きな女は?」
「亡くしました」
老音楽家は驚きの声をあげた。
「それはかわいそうに。で、亡くして、どれくらい経つ?」
「一年です」
「その間、ずっと女なしの生活か?」
吾郎はうなずいた。
「十分、喪に服した。もう、新しい恋を初めていいと思うがね。まさか、仕事が全てだと言わないだろうね?」
「そうかもしれません」
「馬鹿げているよ! 恋をしたまえ、人生観が変わる。一夜の恋でも人生が変わる。ここには、一夜の夢を与える女達が寒空の中を立っている。遊べば、新しいものが見えてくるかもしれない。いいかい。どんなに悲しみにくれても時間なんか戻らない。時間なんてあっという間に過ぎていく。列車のように、悲しみも、喜びも、みんな積んで遠くへ消える。もう二度と戻ることはない」
老音楽家が言うように、その一角には、怪しげなホテルが立ち並び、化粧を濃くした女達が小暗い道で通り過ぎる男達に甘い夜を囁く。
吾郎は首を振り、「でも、今日は遊ぶ気分じゃない」と断る。
後ろから、若くもない女が精一杯の甘い声で囁いた。
「お兄さん、一緒に夢の世界に行かない?」
吾郎は突然、美沙を思い出し苦笑した。美沙が同じように、「一緒に夢の世界に行こう」とセックスを誘ったことが何度もあったのである。すると、美沙との甘い夜も思い出した。情熱的に、盲目的に欲望に捧げた夜。ずっと昔のように思えた。
「ねえ、遊ばない? 今夜は飛びきりの思い出になるようにしてあげるわ。若い娘が良ければ紹介するわよ」
吾郎は女を見た。昔は、美人であったかもしれないが、今はひびの入った美しい壺のように見えた。
「私じゃだめ? だめなら、他の娘を紹介する」と女は微笑んだ。
若い娘でない方がよかった。一時の戯れとして、すぐに忘れるために。
「君でいいよ。名前は何と言う?」
「名前、適当に呼んで。あなたの好きな女の役を演じてみせる。今夜はユリと呼んで」
「本名かい?」
「教えない」
 近くのホテルに入った。
 吾郎は久々に女を抱いた後、ユリに聞いた。
「あのバイオリン弾きは、いつも弾いているのかい?」
「よく知らないけど、月夜の晩によく弾いている。何でも娘さんがあの川に身投げしたらしいの。月夜の晩にその魂がさまようから、バイオリンを弾いて慰めているというの。頭がおかしいと言う人もいる」

その夜からである。一夜限りの慰めを求めるようになったのは。会社を終えた後は、酔うか、それとも一夜の恋をするか、いずれかであった。そんな日々を繰り返すうちに九年の歳月が過ぎた。しだいに美沙のことも思い出すことも無くなった。

吾郎が三十四歳のとき、五歳年上の高橋沙織と出会った。小さなスナックでホステスをしている。
はじめに好きになったのは、沙織の方だった。吾郎の知性やどことなく影のあるところが好きだと告白した。その夜、吾郎に抱かれることになった。
「お前のことは気に入ったが、心から愛することはないと思う。それが嫌なら、これっきりにしよう」
沙織は照れるように笑った。
「私だって、その方がいいわ」
吾郎は沙織を抱き寄せ、「互いに心を見せることなく、体だけ求め合うだけの関係だよ」と念を押した。
沙織は、「分かっている。こういうことでしょ?」と言って体をからませた。
互いに心を見せることなく、愛する真似事のような関係が、それから七年間も続いた。場所と時間は沙織が指定してきた。たいていは川崎の駅で待ち合わせをして、駅近くのラブホテルで愛し合う。むろん、ホテルで愛し合うだけではなかった。一緒にショッピングしたり音楽会に出かけたり、食事もした。たいていが日曜日の夕方だった。

ちょうど今から一か月前のとこである。いつものように食事をした後、ホテルに入った。二人が裸になった。沙織が吾郎の手を自分の乳房にあてた。
「このおっぱい変じゃない。もう少し強く掴んでみてよ、何か、しこりを感じるでしょ。病院に行ったら、先生に言われた。がんかもしれないって」
沙織を微笑んでいた。けれど、それはどこか引きつった笑みであることを吾郎は気づいた。
「大きな病院でちゃんと検査したのか?」
「うん」
「本当のがんだったら、すぐに手術だって。あなたが言うとおり毎年人間ドックで検査を受けるべきだった。そうしてこなかった罰ね。おっぱいを半分無くしても愛してくれる?」
「半分なくても構わない」
「最悪の場合、切除しないといけない。無くしたとき、あなたを失うのが怖い。あなたを失ったら、もう生きていけないかも……」と沙織は泣いた。
作品名:運命に導かれて 作家名:楡井英夫