運命に導かれて
一方、吾郎の方では、美沙が拒絶の意を示さなかったので、これから起こることの全てを承知したものだと勝手に判断し、美沙を押し倒した。
「俺は好きだ。お前はどうだ?」
「遊びじゃなければいいよ」と美沙は答えた。
「さっきも言った。俺はお前を愛している」と美沙を強く抱き寄せた。
「ここじゃだめよ。部屋で」と美沙は部屋の中に招きいれた。
吾郎は激しく愛した。いつしか美沙の方でも彼を求めていた。やがて、二つの体は一つになり結ばれた。
二つの体は離れた後、美沙が吾郎の顔をしみじみと見た。
「眉毛の濃いところとはそっくり」
「誰に?」
「お父さん」と笑う。
美沙の父親は美沙が十歳のときに亡くなった。幼い頃、よく抱いて頬ずりをした。そのとき、父親の太い眉毛に触って喜んだ。
「太い眉毛の人は長生きするというけど、父はできなかった。交通事故に遭わなければ、長生きできたのかもしれないけど。私たちは結ばれる運命だったかもしれない。だって、私はお父さんと同じような人を求めていたから。吾郎、あなたはどう?」
吾郎は、「人は運命に導かれて生きる」という言葉を思い出した。母の葬儀のときに遠い親戚が呟いた言葉である。
美沙は父親を亡くした寂しさを埋めるために吾郎を求め、吾郎も母を失った寂しさを埋めるために美沙を求めた。美沙は母のような優しく豊かな胸をしていた。互いに相手の中に親の影を見て、そしてひきつけられるかのように一つなった。それは運命なのかもしれない。
半年もすると、二人は同棲するようになった。半ば強引に吾郎が美沙の部屋に転がり込んだが、美沙は嫌がるどころかむしろ喜んだ。
美沙は少ずつ吾郎の愛する女に変わっていった。一年も過ぎる頃には、美沙の方から求めるようになった。性欲に関しては美沙の方が強かった。
大学を卒業すると同時に、二人は東京の会社に就職した。式は挙げずに結婚し、渋谷の近くの祐天寺にアパートを借りた。
結婚して二年と十か月が過ぎた二月の終わりである。その日は朝から晴れていた。美沙は窓を開けた。冬でも、一度は窓を開け、空気を入れ替えるのが、彼女の朝の始まりである。開けられた窓から、朝日が部屋の隅々まで差している。外がところどころ白くなっているのは、深夜に降った雪のせいであろう。
「冷たいから早く締めなよ」と吾郎は文句を言った。
「もう少し待ってよ。空気を入れ替え終わるから」と美沙は応えた。
「寒いよ」と服を着ている吾郎を微笑みながら見ている美沙はとっくに着替えている。
「ねえ、こんな話を知っている?」
「どんな話だよ?」
「もともと人間は男と女が合体した形で存在したの。それを神が二つに割けた。だから男も女もその片割れを求めて旅をするの」
「生物学的にはありえない話だな。誰が言った?」
「プラトンよ」
「紀元前の哲学者か。それなら仕方ない。まだ生物学がない時代だからな。片割れを求めて、一つになるのはセックスのときか」と着替えの終えた吾郎は美沙を抱き寄せ、口づけをした。美沙の少し大きめの柔らかな唇が好きだった。
「もうさっきしたばかりじゃないの」と軽く吾郎を突き放し笑った。
「私の片割れは吾郎だと思っている。吾郎はどうなの?」と美沙は聞いた。
「同じだよ」と少し呆れたように答えた。
美沙の横顔を見た。
「どうしたの? 何かついている?」
「何も」
「君の顔の向こう側に昔の世界があった」
「変なことを言わないでよ」
「君と会わなければ、きっと死んでいたかもしれないということ」
「何を大げさに言うのよ」
大げさのことではなかった。美沙と出会い、そして結ばれたことによって、母を失ったときにできた大きな穴を塞ぐことができた。本当に塞がれたかどうかは分からないが、ともかくも美沙を愛することで痛みや悲しみを忘れることができたのだ。
「もう一度キスしよう」
「何を言っているのよ。そんなことをしていたら、会社に遅れる。ちゃんと働いてよ。将来のために。私と私のお腹にいる子のために」
妊娠三か月だった。新しい命も授かるという、まさに幸福の絶頂にいたが、数日後、美沙は不慮の事故に遭い帰らぬ人となった。子供ができたことを告げるために、湘南にある実家に帰ったときのことである。まだ二十五の若さだった。
吾郎が美沙と対面したときは既に冷たくなっていた。死に顔は不思議なほど穏やかで、まるで眠っているようだった。
彼は何度も呼びかけた。
「お願いだから、目を覚ましてくれ」と。
母を失ったときよりほど混乱はしなかった。少なくともそのように演じた。傍からみれば、さほど精神的にダメージを受けているとは見えなかったであろう。だが、彼は母を失ったときよりもはるかに傷ついていた。もう二度と恋はできないと思うほどに。それほど深く愛した。その悲しみは底知れなかった。
美沙の遺骨は美沙の実家が引き取った。美沙は一人っ子だったので、両親がぜひ引き取りたいと言ったのである。葬儀も終わり、骨も美沙の家の墓に入れられた。
吾郎はまた実家の墓を守ることが唯一の生きる支えとなった。片割れもなく、心の大きな空洞が開いたまま、ただ命ある限り生きる。何か重い罰のようにも思えたが、吾郎には、悪くないとも思った。そのくらいの罰がなければ、天国にいる美沙に顔向けができない気がしたからである。だが、美沙と新しい命の両方を一度に失って、さすがの吾郎も前と同じような生活をできなかった。会社も休み続けた。ただぼんやりと過ごしていた。母が父を失ってからぼんやりとすることが多かったが、何となくそれが理解できるようになった。何をするにも億劫で、やる気が湧かないのである。
そんな日の夜、美沙が夢に出てきた。
「何、ふて腐れた顔をしているのよ。そういった顔は嫌い。悲しいときや悔しいときこそ笑ってよ。あなたには笑顔が似合うから。笑って生きてよ」
仕事でうまくいかないときなど、よく苦虫をつぶしたような顔をしたことがあったが、そんなとき、美沙はそう言って頬にキスをした。すると、彼の背中にあった重き荷がまるでたいしたものではないと思えたから不思議だった。
夢から覚めて、「笑って生きてよ」という言葉を思い出し涙した。
数日後、吾郎は再び会社に戻った。まるで何事もなかったような顔して復帰した。それからの彼は、いつもソフトウェアの巨大システム開発の最前線にいた。彼の会社はコンピュータシステムを会社であった。
吾郎は偽りの自分自身を演じた。美沙が言っていた、笑って生きる人間の役を。それが会社では明るく打たれ強い人間と映ったようだ。だが、彼の心の中に深い穴があることを誰も知らない。彼の心の時計は止まったままだった。きっと、もう二度と動かないと諦めていた。
現実の世界へのある種の諦めが、かえって吾郎を有能な人間に引き上げた。同時に仕事の鬼と化した。昼も夜も働いた。休みもあまりとらず熱心で働くので、周りも上司も少しは休めとも言ったが、むしろ働いている方が良かった。働いていれば、少なくとも美沙のことを忘れることができたから。