空色のリュート
「あんたのリュートはいい音を出すね」
旅の途中でそういって彼女によく声をかける男がいた。
旅と言っても女の一人旅だからそう遠くまであちこちいけるわけではない。気に入った街をいくつか巡りながら時折見知らぬ街に足を伸ばす程度だったから、二度三度と顔を合わせる者も多かったのだ。
空の子の方もその男の顔は覚えていた。方々の街の市場を渡り歩いて物を売る旅商人だった。
「リュート弾きは時々見るが、あんたみたいに若くてうまいのは珍しい」
「なあに、私の師匠も若いのに上手かったよ」
すでに地上に落ちてから十年近くの時が経っており、空の子が言葉で苦労することはなくなっていた。
「そうかい。そりゃあ、一度会ってみたいもんだ」
「残念だけどもう会えないよ。何年か前に流行り病があっただろう。それで」
「これは失礼。嫌なことを思い出させちまった」
「いいや、気にしないでおくれ」
旅商人は色んな土地に足を伸ばす上に情報網が広い。次の街は税金が高いとか、あっちの道のほうが実は早く着くのだとか、そういった旅の情報は彼のような旅商人から聞くのが一番確実だった。空の子によく声をかけていた旅商人は特に情報通で、一度足を運んだ辺りのことなら嘘かほんとかわからないような怪物の話まで知っているといった風だった。
「そんでその湖にはもう牛も丸呑みできるような大ナマズがいるって話でな」
何事も大げさに話しすぎるのが玉に瑕だが、男の話は聞いていて飽きなかった。時に明るく果敢に勇猛に、そして時に悲しく静かに。旅商人はこうも口がうまいものかと感心しながら、空の子は気が向いた時には彼の語り口上に合わせて即興でリュートを奏でた。道中で旅団などと一緒になって野宿をするときはとくにこれが喜ばれて、火を囲み酒で体を温めながら二人で物語を紡いだ。
「なあ」
ある夜、空の子は久々に野宿で一緒になった男にふと聞きたくなって問いかけた。
「空には何があると思う?」
周りの者は早々に寝静まり、起きているのは空の子と火の番を任された男くらいだった。
「いきなりどうした?」
「なんでもいいじゃないか、ちょっと気になっただけだよ」
「ああ、そうそう。そういうやつだったよなあんたは」
そんな風に茶化しながらも男は星空を見上げて少し考え込んでいる様子だった。薪の爆ぜる音がぱちぱちと響く。
「空には、星がある。あとお月様とお天道様だ」
「それは空の上だろう。空には何があるって話だよ」
「星は空の上にあるのか!知らなかった。あんた博識だなあ」
空の子は少し後悔した。自分がかつて空に住んでいただなんて話は、その奇妙さを知らずに師匠にしてしまってから一度も口に出していない。空にいたことがない彼らにとっては、空もその上も全部一緒のことなのだ。
「私が博識だなんてことはどうでもいいのさ。空には何があると思う?」
「そんなこと俺にはわかんねえさ」
下手なこと言うと博識様に馬鹿にされらあ、と男は少しすねた風に言って火に薪を足す。やっぱり空の上だのなんだの言わなければよかったと空の子が反省していると、彼はでも、と言って話を続けた。
「空はどこまでも続いてるからなあ。俺の吸うこの空気も本当は空なんじゃねえのかなって、今思った」
炎が乾いた薪の上をちろちろと舐める。そうして新しい薪が炎にのまれていくのを見ながら、空の子は小さくそうか、とつぶやいた。
数年後、男はよく寄っていた街の娘と恋仲になる。さらに数年後には結婚し、それを機にその街を拠点とするようになった。空の子も街の近くを通るときには顔を出し、彼らの言葉に甘えて何度も世話になった。そこの家族はみな空の子のリュートを好いていたが、とりわけ二人目の娘はひどく彼女のことを気に入っていた。
「私おっきくなったらお姉さんと一緒にリュート弾きながら色んなとこ行くんだ」
それ以外に言うことがないのかというほど言い続けていたその夢は、残酷なことにこの物語では叶わない。五歳になった冬に高熱を出した娘は吹雪の夜に短い命を終える。
当時いつもより遠方を旅していた男が街に戻ったのは、葬儀の一月ほど後の麗らかな小春日和だった。
「せめて最後に会って話したかった」
そういって力なく笑いながら娘の死を伝える男の手には、娘の土産にと旅先で買った小さな人形が握られている。その人形を空ろな目で見つめては時折動かしている友人を、空の子は不思議な気持ちで眺めていた。
人が死んだ話を聞いたり死に目に会ったりしたのは、もちろんこれが初めてではない。師を看取り、その後もたくさんの人の死を見てきたが、彼女には人の死を悲しむという感覚がわからなかった。彼女には人が死ぬとき、その人が空に帰っていくように見えてならないのだ。
「きっとあの娘は今もここにいるんだよ。吸う空気も触れている風も、お前にとっては全部空なんだろう」
だからそんな顔はしてやるなと励まし笑顔にするつもりで言ったその言葉に、男は空の子が今まで見たことがないほど盛大に泣いた。あまりの泣きっぷりに狼狽える彼女をよそに彼は一晩泣き続けたそうだが、翌日には久々に彼らしい晴れやかな笑顔を見せたという。
その次の秋、男には四人目の娘が生まれた。
「女ばかりで男にとっちゃ肩身が狭いよ」
出産を祝おうと彼の家を訪れた空の子に、男は嬉しそうな顔でそう言った。少しおませな一人目の娘は早くも父親に反抗し始めており、厳しい言葉をかけられるたびに彼は「肩身が狭い」と愚痴るのだ。
「そういう割には嬉しそうじゃあないか」
「そりゃあ、かわいい嫁さんと娘たちだからなあ」
「結構なことで」
「そう言うあんたは結婚しないのか?」
「じゃあ私から聞くが、するように見えるか」
「はは。違いない」
「でもまあ、お前を見ていると家族ってのも悪くないなとは思うよ」
そうだろう、と照れながら自慢げに笑っていた男が何かに気づいく。どうした、と空の子が聞くと男は少し怪訝そうな顔で答えた。
「あんた呼ばれてるぞ?」
三人目の娘が空の子を呼んでいるという。
「聞こえないのか?」
言っていることを理解するのに数秒かかった。しばらくの沈黙の後、空の子は小さく頷いた。
聞こえなくなっているのは甲高い音のようだった。決して多くはない蓄えを使って医者に行ったが、結局原因はわからず終い。何の対処もできないまま次第に自身の声さえ聞き取りづらくなり、異変を感じてから三年もしないうちにほとんどの音が彼女の周りから消えていった。
川のせせらぎ、早朝に街の人々が開ける窓のきしみ、木々のざわめき、男とその家族の笑い声、薪の爆ぜる音。
愛おしいそれらが消えていくのをどんな気持ちで眺めていたのかは誰も知らない。
だが不思議なことに、リュートが奏でる音だけは綺麗なまま残された。
「リュートの音が聞こえるのが救いだな」
その程度の会話なら男の身振りと唇の動きで難なく理解できるようになっていた。
「不幸中の幸いってやつだ」
そうだなと笑い返しながら、空の子は果たしてそうなのだろうかと心の中で呟く。空色の音はいつまでたっても彼女を空に帰すまいと心を掴み続けている。それでもリュートを弾く手は止められなかった。リュートを弾くことが彼女の全てだった。