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六戸はるか
六戸はるか
novelistID. 59422
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空色のリュート

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「今ひと時の物語はいかがかね」
そういって噴水広場に人を集める男がいた。
よく晴れた日の昼下がり。朝早くからにぎわっていた市場は飯時を過ぎて少し落ち着き、再び忙しくなる夕刻までの小休憩といった様子だ。夏を呼ぶ爽やかな風が露店の間を吹き抜け、男が時折弾くリュートの音色をそこかしこに散りばめていく。
「今ひと時の物語はいかがかね」
その声と音色に観光客と思しき家族連れが足を止め、昼食を済ませた子供たちが噴水の周りに座って早く早くと話をせがむ。商人たちも各々店番をしながら風が運ぶ音に耳を傾けていた。
噴水の周りに軽い人だかりができたところで男は一際強く弦を弾く。初夏の空によく似合うすがすがしい音色が物語の始まりを告げた。
「さて皆々様、長らくお待たせいたしました。今日のような麗らかな日にここで会ったのも何かの縁。このように空が高く青い日にはそれに相応しい物語を届けましょう。数々の物語がある中でも、私にとってすこし特別なお話。私が愛してやまないこの楽器、リュートにまつわる不思議な物語でございます」
そう前置いて男はふとリュートを弾く手を止めた。市場のざわめきの中に突如物悲しい音が落とされる。
「昔々そのまた昔。空がもっともっと高かった頃、空にも人が住んでいたという」

*******

「それ」が人だったのかはわからない。空の子とでも呼ぶべき「それ」についてただひとつ確かなことは「それ」が空で生きていたことだった。触れるものも見るものも吸う息もすべてが空そのものだった。「それ」にとって燃える赤は夕日、重たい灰色は雪雲、そして鮮やかな緑は見下ろす大地だった。そうやって空に生きていた、あるいは空そのものだったのかもしれない「それ」がなぜ突然地上に降りてきたのかは、本人も含め誰も知らない謎である。語る相手さえいれば「それ」はこう言って話し始めただろう。
今にして思えば転寝でもしていたのかもしれない。


見知らぬ空間が空の子を包んでいた。
聞いたことのない言葉、地を歩く人の群れ、夕日の赤レンガ、雪雲の石畳。
飲み込めない現状にほんの一瞬恐怖したものの、雲の上から見下ろしていた世界が目の前に広がっていることに空の子はむしろ興奮した。
歩いてみる。寝転がってみる。何もかもが新鮮だった。
地を蹴って走るだけで心が躍る。走っては飛び跳ね、飛び跳ねては走り、躓いて転んで泥で汚れても自然と頬が緩む。起き上がって覗き込んだ水たまりには想像していたよりも幼い少女が映り込んでいて、これが自分かと眺めて頬をつねる。それを真似て水たまりの中の少女も頬をつねる。それが楽しくて今度は口を開けて歯をむく。予想以上に変な顔が見返してくるので空の子はけらけらと笑い転げた。そんな彼女を通行人たちはいぶかしげな顔で見て見ぬふりをする。が、当の空の子はそんなことお構いなしで次はでんぐり返り、今度は逆立ちと飽きる様子なく動き回ってはまたけらけらと笑った。
そうしてひとしきり笑い終わった少女の目に信じられないものが映り込んだ。

人と赤レンガの遥か先。ずっとずっと遠くにかすむ青が仰向けになった少女を見ていた。

射すくめられたように息が止まる。全身の血が一瞬で凍る。
知らなかった。気づかなかった。こんなに空が遠いだなんて。

紅葉のような小さな手を懸命に伸ばして飛び跳ねる。届け届けと念じても、空は何食わぬ顔で空の子を見下ろしたままだ。きゅう、と何かが締め付けられる。
赤いレンガの建物で切り取られた小さな小さな遠くの空は、空の子が息をし続けるには全然足りなかった。

気づくと石畳を蹴って走っていた。どこに行けばいいかなどわからない。ただただ空の広い場所へ、空に近い場所へと思いながらがむしゃらに走った。
足の裏は石畳から土に変わり草に変わり、時に砂利や泥濘に変わったがそれでも足は止まらなかった。広い空、狭い空、青い空、赤い空、紺碧の空。どの空も依然遠いままだった。どこか遠くへ。もっと遠くへ。空はまだまだ遠いのだから。

そうやって走り続けてやっと足を止めたとき、少女は夜の海にたどり着いていた。気づかぬうちに濡れていた頬に潮の香りが染みる。どこよりも空が広いこの場所が、彼女にはどこよりも空に近い場所に思えた。
浜木綿の白い花が風に揺れているのが少女の目に留まった。それを見るともなく見ていると、疲れた笑いが空の子の口から洩れる。
「さっきまで何もかもが空だったのにね」
浜木綿の横にしゃがみ込んで、少女は静かに語りかけた。
「なのに今じゃこんなに遠いんだ」
浜木綿は黙って頷いた。それが無性に心地よかった。
「もう本当に、全部が全部空だったのに」
浜木綿が一際大きく首を振る。風が少女の髪を空へと巻き上げる。自然と彼女の視線は空へと流れ、その視線の先で風が空へと還っていくのが見えた。
(風に乗ったら空に帰れる・・?)
浜木綿は何も言わずに頷いている。その動作が時々大きくなるのを、空の子は静かに眺めていた。
小さく、小さく、大きく、小さく、大きく、小さく小さく小さく、小さく、大きく・・
風を読むのはもともと彼女の得意とするところだ。次の風で空に帰ろう。小さく、小さく小さく―
大きく。

舞い上がった風に乗って響いたリュートの音が、風に乗って帰るはずだった少女の心を引き留めた。透き通った、それでいて力強い、たとえるならば空色の音。その音が少女の耳の奥に響き胸の中を空で満たし、そして彼女の心を捕らえた。
浜木綿が何度も何度も、小さく大きく首を振る。それでも少女は浜辺に立ち尽くしたまま空色の音を聞いていた。

「どうかされましたか?」
浜辺でリュートを弾いていた音の主がしゃべる言葉を、空の子はまだ知らない。何も言わずにリュートを指さす少女に少し困惑したその人は、とりあえず弾いてみるかと彼女にリュートを差し出した。
「こうやって弾くと音が出るんですよ」
弦を一本弾いて見せて、やってごらんと少女の手を弦に沿える。弾いてみていいのだと、それだけは理解した空の子は恐る恐る弦を弾いた。
ぽよん。
空色とは似ても似つかないできそこないの雲のような音がした。不服そうな少女が可笑しくて、申し訳なさそうにしながらもリュートの主は笑いを堪えられない様子だ。
「さすがに初めてでキレイな音はでませんよ」
くつくつと小さく笑いながらなでるような滑らかな手つきでリュートを奏でる。空色の音がそこにはあった。
「あなたさえ良ければ教えて差し上げますよ」

なぜリュートの主がそう言ったのかはこの物語では語られない。そして少女の師となるこの人物についても語られていることは少ない。空の子にリュートを教えながら旅をしたこと、よく空を眺めている彼女に空色の衣服を贈ったこと、そして流行り病に侵されて若くして亡くなったこと。師が愛したリュートは空の子が受け継ぎ、彼女は死ぬ直前までそのリュートと旅をつづけることとなる。
作品名:空色のリュート 作家名:六戸はるか