切れない鋏(番外編)9.紗弥の章 ハロー、ブルーバード
おまけ(眠る結婚祝)
ジャズ喫茶『ブラックバード』の店主、綿谷の若妻は、今日も朝からおかんむりだ。
夏のある朝、無性にあの店のコーヒーが飲みたくなって、午前九時の開店と同時に武が店に入ると、エプロン姿の紗弥が店主にむかって何やら叫んでいた。
ぐるりと店内を見渡したところ、まだ客は来ていないらしい。武の存在にも気づいていない。カウンターに歩みよると、フローリングの軋む音が響いて、綿谷がふりむいた。
「やあ、いらっしゃい」
紗弥に首根っこをつかまれたまま、いつもの笑顔を見せる。武が彼のむこう側をのぞきこむと、紗弥はあわてたように手を離した。
シャツの襟元を正しながら、綿谷は苦笑いをする。
「こんな時間にめずらしいね。モーニングでいいかな」
彼はいつも通りの動きでグラスに水を注ぎ、トーストを焼く準備を始める。店内に漂うコーヒーの香りも、ささやかに流されているBGMも変わらないのに、カウンター内に紗弥が立っているだけで、別の店に迷い込んだような心地になる。
「朝っぱらから何やってんの?」
たどたどしい手つきでカラトリーを並べる紗弥を見ながら、武はつぶやいた。
綿谷が厨房に入ったのを確認して、紗弥は武を睨む。
「どうしてこれがここにあるのよ」
そう言うが紗弥の手元には何もない。何のことか見当がつかず首をひねっていると、紗弥はカウンターの上に贈答用の箱をどんと乗せた。
百貨店の包装紙はすでに破ったらしく、目の前に「結婚祝」と印字された熨斗がある。
「奥さんに渡しなさいって言ったでしょ」
「結婚してないけど」
「あんたね、私のことバカにしてるの? 渡せって言ったものがどうしてここにあるのよ!」
そう言ってカウンターの下の方を指さす。どうやら三年前に綿谷に押しつけて以来、ずっとここで眠っていたらしい。
スクランブルエッグのプレートを持って厨房から戻ってきた綿谷が、気まずそうに武を見る。
「いつかおまえに返すつもりだったんだけど、今朝、彼女に見つかっちゃって……」
綿谷が申し訳なさそうにプレートをさし出すと、紗弥は勢いよくトーストの皿を突き出してきた。
「どうして綿谷さんがあやまるんですか!」
「おまえだって綿谷だろ」
すかさず武がそう言うと、紗弥は顔を真っ赤にして息を止める。
隣に立った綿谷は期待を込めた瞳で彼女を見つめている。紗弥の言う「ずるい」微笑みは、結婚してからも健在のようだ。
武がスクランブルエッグをつつきながら紗弥を見上げると、彼女は息を吸って言った。
「………………賢吾さんっ!」
「はい、何かな?」
満面の笑みを崩さずにコーヒーを注ぐ綿谷に、紗弥はぐうの音も出ないらしい。武の前では見せることのない一面に、思わず笑ってしまう。
「……ったくもう、式の前に気づいてたら、あんたの引き出物はこれにしてやったのに」
憎々しげにそう言いながら、熨斗を叩く。テープのあとを見る限り、受け取ったときに武が一度開封したきり、手つかずのままのようだ。インテリア会社の跡取り娘に贈るはずだった、紗弥の渾身の嫌味――とっくに処分されていると思っていた結婚祝と対面すると、嫌でもあの頃のことを思い出す。
なぜあの場で綿谷が突き返してこなかったのか――あの時、武が一時的にトランペットを吹けなくなっていたことに、彼は気づいていたのかもしれない。店で使ってくれとも言ったけれど、開封はしなかった。それは紗弥への思いやりもあったのかもしれなかった。
彼らの結婚披露パーティをしていた時も、この箱は人知れずカウンターの下で眠っていた。重いものを彼に背負わせてしまった、と詫びる気持ちと同時に、感謝の念も湧きあがっていた。
紗弥と新婚生活を送るようになっても、綿谷は変わらない。いつものように店を開けて常連客を出迎え、忙しいランチタイムをやりくりし、夜はライブの客を出迎える。
薬剤師の仕事をしていて日曜が休みの紗弥も、こうして時おり店に立っている。たどたどしい手つきで水をつぐ姿を、優しい目で綿谷が見つめている。
いつかこうなればいいのにと思い描いていた未来が、目の前にある。そのことに不安を感じずにもいられない。いいことのあとには悪いことがある。幸せは長くは続かない――長年の習慣でそう考えるようになってしまった自分に嫌気がさすけれど、目をそらすこともできない。
じっと見られていることに気づいたのか、紗弥が睨み返してきた。
「そういや、あんたから結婚祝もらってないけど」
「もう渡した」
武はすぐにそう返答した。紗弥は銀縁眼鏡の奥の瞳を丸くして、何やら考え出す。
武が空中で見えないコーヒーカップを傾けるしぐさをすると、紗弥はポンと手を叩いた。
「……どうりで高価なものだと思ったのよ。あんたが上乗せしたのね」
「そういうこと」
今度は実物のコーヒーカップを手に取って口をつけた。さわやかな酸味が鼻の奥を抜けていく。この店ができるまでコーヒーを飲む習慣はなかったが、綿谷の淹れるコーヒーを知ってからは、これだけのために足を運ぶ客の気持ちがわかるようになった。
彼らが式を挙げる前、小雪と二人で結婚祝を探した。個人名で贈る照れくささもあって、連名にはせずに、小雪から渡してもらった。自分の祝福など、わざわざ伝えるほどでもないと思っていた。
「ありがたく使わせていただいています」
予期せず、紗弥が頭を下げた。武が驚いていると、次のコーヒーカップの支度をしていた綿谷がチラリとこちらを見た。目元はゆるく弧を描いている。ふっと口元に浮かんだ微笑みに、武は安堵した。自分の結婚祝を押しつけてしまった罪悪感が、少し薄れる気がした。
「でもこれは、あんたが責任もって持ち帰りなさい」
途端に紗弥の語気が強くなる。武はそっぽを向いて言った。
「いらない」
「ここにあったって困るのよ!」
「俺だってそんなの新居にあったら困る」
そう言うと、シュガーポットを持っていた綿谷の手の動きが止まった。
「またどこか引っ越すのか……?」
不安げにそう言われて、武は嬉しいような困ったような気持ちになった。
「じつは明日から本社勤務になったんだ。昨日から引っ越し作業してて、今はその息抜き」
そう言ってコーヒーをすすると、紗弥の瞳の中に光が輝いた。ある程度予測はしていたが、そんなに喜ばれても困る、と思いながら武はカップを置いた。
「本社勤務って……こっちに住むってことよね。小雪にはもう連絡したの?」
結婚してもまだ彼女の頭の中は、妹のことでいっぱいらしい。武が「まだ」と首をふると、紗弥はエプロンのポケットに入れていた携帯電話を出してさっそく操作し始めた。
それを、武がすいと取り上げる。紗弥は金切り声を上げる。
「ちょっと返しなさいよ!」
「それは俺が、やりたいから」
そう言ってカウンターの上に携帯電話を置くと、紗弥は仕方なさそうに息をついた。綿谷が「まあまあ落ち着いて」と言って紗弥をなだめる。その間も彼女の視線は贈答用の箱のあたりを彷徨っていて、武は無言でトーストにかじりついた。
「わかったわよ、それは売り飛ばすから」
作品名:切れない鋏(番外編)9.紗弥の章 ハロー、ブルーバード 作家名:わたなべめぐみ