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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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切れない鋏(番外編)8.綿谷の章 バイバイ、ブラックバード

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 今夜は愛美のコンボが出演することになっている。今戻ればちょうどリハーサルに出くわすだろう。メンバーはプロを志すものばかりで、演奏レベルはかなり高い。それで彼の気が紛れてくれればと綿谷は祈った。
 あわただしく後輩が出て行くのを見守りながら、紗弥はため息をついた。

「綿谷さん、今とっても意地悪な顔してましたよ」
「そう? 紗弥ちゃんには負けると思うけど」

 満面の笑みでそう切り返すと、紗弥は苦々しく顔をゆがめた。サンドイッチの包みを開いてポットのコーヒーを注ぐと、病室は『ブラックバード』の香りに満たされていく。
 紗弥の表情がゆるむのを感じて、綿谷は胸をなでおろす。

「明日は君の好きなものを作ってくるよ。何がいい?」
「そんな……お店が忙しいでしょ」
「僕だって休憩時間くらいあるよ。明日からはここで休憩を取ることにする」

 さらりとそう言うと、紗弥から笑みがこぼれた。

「じゃあ明太子クリームスパゲティと……」

 そのあと、言葉が続かない。視線を彷徨わせる紗弥に、綿谷は「それと?」とうながした。

「プリンアラモード……って言おうと思ったけど、それは退院したら自分で食べに行きます」
「相変わらず律儀だね。じゃあ明日はお望みどおりに。料金は前払いでいただきます」

 何食わぬそぶりで顔を近づけると、紗弥は体をうしろに引いた。

「……なんですか?」
「さっきの続き。できたら君からしてほしいなあ」

 少し気持ちに余裕の出てきた綿谷は、目を細めてそう言った。顔を真っ赤にした紗弥がベッドから逃げようとしたので、すかさず綿谷は抱きとめた。

「……やっぱり綿谷さんはずるいです!」
「自覚はあるよ。困ってる君を見て楽しんでるんだから。ほら早く。小雪ちゃんが戻ってきちゃうよ」
「……もう!」

 紗弥はそう叫んだあと、震える右手で綿谷の腕を握ってそっと口づけてきた。その優しい温かさは、過去への執着も、未来への不安も全て溶かしてくれるようだった。
 前に進むだけが全てではない、この地に留まってできることもたくさんある――
 窓から吹きこむ初夏の夜風を感じながら、綿谷は紗弥の小さな手を取った。



 店の扉を押すと、ちょうどライブの本番が始まったところだった。扉のすき間から漏れ出してきたコーヒーの香りとドラムの4ビートが、綿谷の全身を満たしていく。
 ステージに立つ男性ヴォーカリストが低くよく響く声色を操っている。彼はトランペットも兼任していて、ずいぶん前から愛美がオファーを出していたそうだ。

 そっと客席のうしろを回っていくと、店の切り盛りを頼んでいたベテランのスタッフが紗弥の容態を聞いてきた。黒いサロンを身に付けながら簡潔に説明する。紗弥と同い年の彼女は自分のことのように胸を痛めていたようで、病室での様子を話すと胸をなでおろしていた。

 カウンターの隅に座った武が、強い眼差しをステージにむけている。その視線の鋭さから彼がまだトランペットをあきらめていないことがわかる。隣に座った後輩も、ふだんの柔らかな風貌から想像できないくらい真剣な面持ちで演奏を聞いている。

 足元にそれぞれのトランペットケースを置いているところを見ると、ライブ後にセッションをする約束を取りつけたのかもしれない。
 今夜ふたたびこの場所で彼らの演奏が聞けると思うと、身震いが起きてくる。 

 厨房をのぞくと、夜の開店準備が追いつかなかったらしく、下ごしらえは中途半端に投げ出されてシンクにも食器が山積みになっている。武たちの飢えた獣のような表情を見ていると共に演奏したい衝動に駆られたが、今自分にはやるべきことがあると言い聞かせて、綿谷は作業台の片づけを始めた。

 本番中も次々に下げられてくる大量の食器と格闘していると、武がふらりと
厨房の中に入ってきた。

「何か手伝いますよ」
「かまわないよ、こっちに戻ってきたばかりなんだろう?」

 そう言った先から次々に注文が入ってくる。予想以上の客の入りに、料理の準備もままならなかったようだ。普段ならセットしてあるカラトリーケースも空で、必要に迫られて洗い始める始末だ。

「俺でも皿洗いくらいならできますよ」
「そういや開店してすぐの頃はよく手伝ってもらったなあ……じゃあお言葉に甘えて」

 下洗いの済んだディッシュプレートを業務用の食洗機につっこんで、武と場所を代わる。ライブが後半にさしかかるとデザート類が出始めるので、急いでフルーツの下準備に取りかかる。

「小雪ちゃんとは話せたのか?」
「ええ、まあ」

 包丁を握る手を止めずに、武の様子をうかがう。一瞬目が合ったが、武はふいと反らしてしまった。今までにも何度か小雪のことを尋ねたことはあったが、いつも武は口が重い。

「僕の大事な妹なんだから、幸せにしてくれないと困るよ」
「いつの間にそんな話になったんですか」

 めずらしく武が声を上げる。食器を洗う手が止まったので、綿谷は包丁を握ったまま、作業を続けるように合図を出した。

「僕がその気になってるだけだから、彼女に余計なことを言わないようにね」
「どうしてですか? 紗弥のやつ、飛び上がって喜ぶんじゃないですか」
「その逆だ。今回みたいに逃げられたら困るから、ぎゅっとつかまえてからプロポーズするよ」
「今回ってなんですか?」

 大量の水を流しながら武が首を伸ばしてきたので、綿谷は口の端を持ち上げて笑った。

「おまえには教えてやらない」

 フルーツを取るために冷蔵庫に向かうと、武は水を止めて洗い場から出てこようとした。綿谷は両腕に新鮮なフルーツを抱えて、「お前の持ち場はここ」と言いながら武を押しこめる。
 厨房にいる限り、綿谷の方が立場は上だ。そのことが分かっている武は悔しそうに眉をしかめながら皿洗いを再開した。

 戸口のむこうからトランペットの音色が聞こえてくる。武のために作り上げたこの場所で、ひとりまたひとりとプレイヤーが巣立っていく。いつの日か「さようならブラックバード」と言われることを綿谷は待ち望んでいる。そのために尽くせることは数限りなくある――あわただしく出入りするスタッフたちに指示を出しながら、綿谷は無心にデザートを作り続けた。



 アンコール演奏が終わると、観客たちの指笛と共に武と後輩がステージに引きずりだされた。思わぬトランペットのトリオに観客たちは湧きあがり、なぜ今夜楽器をもってこなかったのかと歯噛みする者もいた。

 フロントのヴォーカリストが観客たちからセッションする曲のリクエストを受けていると、小雪がかけこんできた。綿谷が病院を出るときに彼女も一旦工房に戻って、その足でまた店に来ると言っていた。

 追加されたソロマイクを調整するために綿谷がカウンターに立っていると、武と小雪がそっと視線を交わした。さりげないやりとりに、胸が熱くなる。

 二年前に武が結婚すると決めたあのとき、彼の本意がどこにあったのか今でもわからない。その後、破談になったときも武は「フラれた」と言っていたが、誰も本当の理由を知らない。紗弥が贈った結婚祝いだけがまだ店に残されていて、いつか突き返してやるつもりだった。