切れない鋏(番外編)8.綿谷の章 バイバイ、ブラックバード
セッションの曲が決まったのか、また指笛が聞こえる。武と後輩の他にもたまたま練習帰りで楽器を持っていたプレイヤーや、その場にいるだけで事足りるピアニストやベーシストが最前列の席で待機している。こっそりと最後列に座ろうとした小雪が愛美に見つかってしまい、最も目立つピアノの隣に座らされてしまった。
微笑ましく眺めていると、いつの間にか武がカウンターの中に入ってきていた。手にはトランペットをぶらさげたままだ。音響に何か不備があったのかと考えていると、彼は綿谷の腕をつかんでステージに引きずり出してしまった。
「綿谷さん、『モーニン』やるでしょう」
そう言ってスティックを押しつけてくる。戸惑う綿谷の背中を、その場にいるプレイヤーが次々と押してくる。武はいたずらっぽく笑ったかと思うと、ソロマイクの前に立ってトランペットを掲げた。その挙動を目にしただけで、体の奥に眠っていた細胞が震えて目を覚ます。
ステージに上がると、身体になじんだドラムセットの椅子が、綿谷を待っていた。
武にうながされて着席したとき、ベーシストが小雪に入れ替わっていることに気づいた。困ったように眉を下げながら綿谷に笑いかけてくる。隣で愛美がピースをしている。
この兄妹にかなう人間などいないのだろう――そう考えると笑いがこみ上げてきた。
トランペットの三人が楽器を掲げる。金色の輝きはお互いに反射しあって、目の前に迫りくる瞬間を待っている。
綿谷はスティックを打ち鳴らしてカウント音を出す。小雪がベースをかまえる。武がマウスピースにくちびるをよせて息を吸いこむ。
トランペットのアウフタクトから始まる有名なテーマに、観客たちが湧きあがった。
テナーサックスがない分、後輩の彼がフレーズをカバーする。三人そろって同じテーマを吹くと脳がしびれたような感覚に陥る。武と紗弥がいた、あの時と同じ、音楽が生み出す果てしない宇宙に向かって綿谷はかけ上がっていく。
流星群のようにきらめく武のトランペットソロ――綿谷も、小雪も、きっとこの場にいる誰もがずっとこの音色を待っていた――
小雪と目配せをしてタイミングを取る。うしろにふり返った武が口元に笑みを浮かべている。
この時間が永遠に続くことはないとわかっていても、きっとまた求めてしまうだろう。
そのために自分はこの場所で生きる。この瞬間を待つ人たちのために――
そう心に決めながら、綿谷はミディアムテンポの4ビートを叩き続けた。
セッション後、約束通り後輩に食事をふるまっていると、酒に酔った愛美が綿谷の首に腕を巻きつけて言った。
「私はバイバイブラックバードなんて、言ってやりませんからね!」
「……何のこと?」
ライブに参加していたプレイヤーたちと何か話していたのに、愛美の一言で全てが吹っ飛んでしまった。思った以上に力が強くて、なかなか振りほどけない。
「今お兄ちゃんから店名の由来を聞いたんです。いつか『さよならブラックバード』って言ってほしいからって……なんですかそれ!」
酒の勢いなのか、ライブ後のおかしなテンションのせいなのか、愛美は本気で怒っている。
「いや別に、さよならしろって言ってるわけじゃないんだけど……」
愛美につかまえられたまま綿谷がしどろもどろしていると、笑いが起きた。愛美をそそのかした張本人まで呑気に笑っている。無理にふりほどくこともできず愛美をなだめていると、彼女は耳元で大きな声を出した。
「この店の名前で新しいレーベルを作って、CDを出すのが私の夢なんです。さよならなんかぜーったいしませんから!」
「ブルーノートみたいに?」
ビールのグラスを片手に持った武が冷かしてくる。目つきの怪しい愛美はカウンターに体を乗り出して叫んだ。
「そう、ブルーノートみたいに有名になってやるの。有川商事からも出資してもらうからね!」
「なんだよ、そのバカみたいな話」
「バカとはなによ。お父さんにはもう話つけてあるからねー」
そう言って舌を突き出すと、武は頭を抱えて「親父のやつめ……」とつぶやいた。
一同から笑いが沸き起こる。誰もが好き勝手に愛美をあおり始めるそばで、小雪も笑っている。その様子を穏やかな表情をした武が見つめている。
どうか二人の未来が明るいものであるようにと、綿谷は祈らずにいられなかった。
来週には元気になった紗弥がやってくるだろう。いつの間にか店の看板メニューになってしまった明太子クリームスパゲティとプリンアラモードで彼女をもてなそう。
この店を訪れる誰もの手に、心穏やかな明日が訪れますように――そう願いながら、綿谷はワイングラスを拭きはじめた。
(おわり)
作品名:切れない鋏(番外編)8.綿谷の章 バイバイ、ブラックバード 作家名:わたなべめぐみ