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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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切れない鋏(番外編)8.綿谷の章 バイバイ、ブラックバード

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 意味深な目をしながら笑いかけてくるので、綿谷は首をひねった。いつもの癖でカウンターに置いてあるグラスと布巾を手に取ると、小雪は「それがいけないんですよ」と言って笑った。

「綿谷さんはずるいんだって、紗弥ちゃん怒ってました。年上風を吹かせて結婚の話ばかりするから、もう口なんてきいてやらないって、拗ねてましたよ。手のかかる姉だけど、よろしくお願いします」

 そう言って丁寧に頭を下げる。そういうことか――腑に落ちた綿谷は顔に血液が上昇するのを感じながら視線をそむけた。

「もう……来てくれないかな」

 一抹の不安を感じながらつぶやくと、小雪は立ち上がって言った。

「好きの裏返しなんですよ。私も最近わかってきました」

 余裕のある顔で笑うと、小雪はチューナーを手に店を出た。
 颯爽としたうしろ姿を見ながら、つらい恋をした分、妹の方が一枚上手だなと考えると、自然と顔の筋肉がゆるんでくる。

 次に紗弥が来るまでに、彼女が喜びそうなデザートを考えようと思った。無心になって手を動かしていると、それまで店内を覆っていた重苦しい靄が少しずつ晴れていくようだった。

                  ***

 それから一週間たっても、紗弥は姿を見せなかった。
 こんなことは今までに何度もあった。仕事が立て込んでくると昼食を取る暇もないと愚痴っていたから、きっと忙しくしているのだろうと考えた。

 いつものように掃除をして、いつものサイフォンでコーヒーを淹れる。雑多な業務にもまれているうちに日々は過ぎてゆく。病気でもしたのかと気にかかることもあったが、時折ライブにやってくる小雪も「普段と変わりない」と言っていた。

 携帯電話も知っているけれど、自分から連絡をよこしたことはほとんどない。今は店主と客と言う関係なのに、最近どうして来ないのかと聞くのもはばかられる。
 いずれくるだろう、自分はここで待つしかない――そう腹を決めて、営業に没頭した。
 
                  ***

 紗弥の音信が途絶えて早一か月、季節は梅雨の時期にさしかかろうとしていた。

 商店街にはアーケードがあるものの、ドアが開閉するたびに湿った空気が流れこんでくる。
 片頭痛持ちの綿谷はこのところ頭痛に悩まされている。薬もあまり効かず、痛みを抱えたまま厨房に立つ。体調がすぐれない時はとにかくミスのないように、と自分に言い聞かせながら、デザート用フルーツの下ごしらえをする。

 紗弥のために苺を添えたピンク色のプリンを考案したけれど、もう苺の季節でもない。次は七夕用に星形に切り抜いたカクテルゼリーでも作ってみるかと考えていると、また痛みが走る。
 紗弥の助言通りの内科に行って鎮痛剤を処方してもらった。少し前に飲み切ってしまって市販薬を飲んでいるが、一向に効き目がない。

 彼女が来ないのなら、作っても仕方がない――そう考えながらカウンターの奥に置いた携帯電話の画面を眺める。一時期はよくメッセージを送ってきていたのに、店にこなくなってからはそれすらもない。このまま、彼女はもう姿を見せないつもりなのだろうか。

 休憩時間になり、綿谷は携帯電話を握って店の外に出た。濡れた傘を持った人たちが、あわただしく行き来するのを眺めながら、画面を操作する。出るかどうかはわからない。けれど「元気にしてる?」と聞くくらい、問題はないだろう――

 飛び出しそうになる心音を飲みこみながら画面に耳をよせる。すると聞こえてきたのは「現在この番号は使われておりません」というアナウンスだった。

 綿谷は呆然としながら、画面を見つめた。たしかに「荻野紗弥」と表示されているのに、彼女は既にこの番号を放棄している。いよいよ愛想を尽かされたようだ。小雪なら新しい番号を知っているだろう、しかし聞いていいものか、しつこいと思われないか――店に続く階段の前を行きつ戻りつしながら熟考していると、不意に携帯電話の音が鳴り響いた。

 相手は小雪だった。明日のライブのことかと思って応答すると、小雪が聞き取りにくい声で言った。

「……紗弥ちゃんが事故で入院してます。お見舞いに来てくれませんか?」

 小雪の声が遠くで鳴っている。目の前を商工会の長である男性が「よーう」と言いながら通り過ぎていく。綿谷は条件反射で頭を下げながら、小雪が言ったことを頭の中で反復する。

「入院って……いつから?」
「おとといの昼に、自転車にぶつかられたそうなんです。本人は元気なんですけど、頭を打ってるから、精密検査が必要みたいで」

 小雪の説明する声が、うまく耳に届かない。二年前、有川慎一郎の追悼セッションをした夜も、彼女は自動車事故に巻き込まれた。雪道でスリップした車が、彼女が乗っていた車に突っ込んだ。運よく命に別状はなかったが、死んでもおかしくないくらい大きな事故だった。

 あの時と同じように、心臓が嫌な音色を立て始める。鼓膜の奥で耳鳴りがして、冷静でいなければと思うほどに頭痛がひどくなる。
 小雪に何度か名前を呼ばれて、綿谷は我に返った。

「さっき電話をかけたんだけど、つながらなかったんだ。もしかして紗弥ちゃんの携帯こわれちゃった?」

 平静を装おうとゆっくり発声したが、手の震えがおさまらない。

「そうなんです。職場には病院から電話をかけたみたいなんですけど、他は誰にも知らせなくていいからって言われて……でもやっぱり、綿谷さんには来てほしいなと思ったんです……今忙しいですか?」
「いや、大丈夫。すぐ行くよ」

 一瞬、ディナータイムのことが頭をよぎったが、この手で育てた頼りになるスタッフもいる。
 詳細を聞いて通話を終了すると、早鐘のようになる心臓をこらえながら、綿谷は踵を返した。



 紗弥が入院しているのは、以前と同じ総合病院だった。楽しいことで病院に来ることなどまずないとわかっているが、慎一郎が死んだ時も、前に紗弥が事故にあった時も、そして今も、死へ誘おうとする独特のにおいが廊下に立ちこめている。

 個室には紗弥がひとり寝ていた。スツールに置かれたハンドバッグは小雪のものだ。電話をかけてきた彼女は、どうやら席をはずしているらしい。
 赤い夕陽が紗弥の寝顔を照らしている。まるで命の終わりのような色をしている。店から持ってきた荷物をスツールに置いて、胸にたまった息を吐きだす。

 眠っている紗弥の頬をそっとなでる。額に残されたかさぶたが痛々しい。前回は腕に包帯を巻いただけだったが、今回は左腕がギプスで固定されている。腰から下は掛け布団にかくれて見えない。車いすを置いているところを見ると、足も怪我をしているのだろう。

 親指の腹で紗弥のくちびるをなでる。最後に店に来た日を思い出す。この小さな口をとがらせて「ずるい人」だと言った。自覚はあった。紗弥の気持ちがこちらに向いているかもしれないとわずかな期待にかまけて、ただカウンターの中で待つ日々だった。彼女がどんな思いで足を運んでくれているのか、本音と向き合うのが怖くて逃げてばかりいた。