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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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切れない鋏(番外編)8.綿谷の章 バイバイ、ブラックバード

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 毎日聞いている音なのに懐かしい振動が伝わってきて、脳が揺さぶられる。

 左足でハイハットのペダルを踏み、4ビートを刻み始める。ツーッツッツ、ツーッツッツと何千回繰り返したかわからないリズムを口ずさみながら、ミドルテンポで叩き続ける。

 学生時代はスティックを握らない日はなかった。大学を卒業してプロの道を歩み始めた矢先に父親が死んで、この店を再開させると決めた時も、スティックはいつもそばにあった。
 店が軌道に乗り、出入りするプレイヤーが増え、日々の業務が忙しくなると、いつの間にかドラムは遠ざかっていった。一度離れると戻る術を見出せなくて、日に日に上達する後輩たちの姿を羨望の眼差しで見つめるばかりだった。
 スネアドラムを叩きながら、ドラムヘッドがずいぶん痛んでいることに気づく。買い求めたとき既に中古品だったから、裏側にはってあるスナッピーの交換も必要かもしれない――
 そう考えながらスネアドラムを持ち上げていると、木製の扉がゆっくりと開いた。

「あの……忘れ物しちゃって」

 そう言って姿を見せたのは小雪だった。長い薄茶色の髪がふわりと揺れる。

「たしかアンプの上にチューナーが……」

 綿谷が立ち上がろうとすると、その動きを制するように頭を下げながら店内にかけこんできた。ベース用のアンプに置かれたチューナーを手にとって息をつく。

「わざわざ家から取りに戻ってきたの?」
「いえ、工房で作業してたんですけど、ないことに気づいてあわてて戻ってきました。綿谷さんはいつも閉店後にドラムを叩いてるんですか?」

 そう言われて、あらためて自分がスティックを手にしていたことに気づく。首をふってスティックを握りなおす。熱を帯びたそれは、今の自分には少し重かった。

「君たちの演奏を聞いたら、久しぶりに叩きたくなってね。ほったらかしにしてたから、ドラムに怒られてるみたいな気分だよ」

 クラッシュシンバルを叩きながら綿谷が笑いかけると、小雪も笑った。その笑顔のむこうに、ふと紗弥の怒った顔が見えた。
 こっそりため息をつくつもりが、思いかけず吐息の音は大きく響いた。小雪の薄茶色の瞳がじっとこちらの様子をうかがってくる。武が言っていたのはこの目のことか――そう思いながら、綿谷はバスドラムを踏んだ。

「このドラムはね、開店するときに武と一緒に探したんだ。店舗の内装をリフォームしてずいぶん借金があったから、楽器はできるだけ安いものをと思って、中古品を買い求めたんだ。小雪ちゃんが使ってるアンプも随分年季が入っているけど、音はいいからね。ピアノだけは元々この店にあったけど、他は全部、武と吟味したものなんだ」

 小雪の瞳の奥に、当時の武の姿が見える。まだ次男の慎一郎が生きていた頃で、未来は希望に満ち溢れていた。自分のプロになる夢は途絶えてしまったけれど、いつか武がこの店の名を背負って世界に羽ばたくのだと、信じて疑わなかった。うしろに戻る道はなくて、ただ明日に向かって邁進する日々だった。結婚を約束していた女性と上手くいかなくなって別れたことさえも、いつの日かプラスになるだろうと信じていた。

 隣には揺るぎなく立つ武がいたから、迷わず前に進めた――
 けれど現実は思い描いた通りにはならず、武はプロの道を断念した。二年前に上京したきり、連絡もない。あの頃の自分と同じように夢に向かって突き進む小雪たちの姿を見ながら、自分が目指すべき道さえ見失っている。
 眼鏡のレンズ越しに見える小雪の瞳が、痛いほど胸に突き刺さってくる。

「客を呼び込もうにも、こんな寂れた商店街に足を運ぶ若い人はいなくて、毎日チラシを配りに行ったよ。あるとき、一駅隣に音楽の専門学校があるから、そこの駅前でストリートライブをやろうって武が言いだして、その時初めて君のお姉さんとコンボを組んだんだ。かなり無理やりだったみたいで怒っていたけど、彼女の舌がいいおかげで料理の方も好評で、少しずつ客が入るようになった。武と紗弥ちゃんがいてこその、今の『ブラックバード』なんだよ」

 そう言って微笑むと、小雪も頬をゆるめて相槌をうってくれた。ふと小雪なら武と紗弥の本当の関係を知っているのではと思ったが、今の彼女に問いただすのは酷な気もして、綿谷は口をつぐんだ。

 静まり返った店内をぐるりと見渡して、息を吐く。フローリングの古い木目を生かした調度品も、煉瓦造りの壁も、天井からぶらさがる白熱灯風の照明も、全て武の発案によるものだった。彼のために仕立てた空間で、彼のトランペットを聴く日々はもう過ぎ去ってしまった。

 綿谷はゆっくりと立ち上がると、カウンターの下にある音響機材を操作した。しばらくして店の四隅にあるスピーカーからアート・ブレイキー・ジャズ・メッセンジャーズの『モーニン』が流れ始める。

「武がこの曲をやりたいって言ったとき、紗弥ちゃんはかなり抵抗した。こんなに有名な曲を自分なんかが吹けるはずがないって嫌がってたけど、どうやって口説いたのか武はストリートライブを実現させてしまった。サックス歴の短い彼女が武のために必死になって練習したのは明らかだった。そのときから二人の間に揺るぎない絆のようなものを感じて、僕はとても間には入れなくなってしまった」

 言いながら、過去のことをいまだに払拭できない自分が情けなくなった。ぼろぼろとこぼれ落ちる本音は、磨き上げたカウンターをとめどなく汚していく。

「武はもういないのに、彼女の隣にはいつも武の影が見える。まるで守護霊みたいに彼女を見守っている。それが僕のくだらない妄想だと気づいていても、武の姿は消えない。それでつい言いたいことをごまかして、彼女を傷つけてしまう」

 わずかに震える拳をカウンターに押しつけて、小雪を見る。武は彼女に慎一郎の面影を見てしまうと言っていたけれど、綿谷にそれが見えたことはない。ただいつも紗弥の隣には武がいる。空想の産物は不都合なときばかり現れて、勝手に自己を暗い世界へ貶めていく。
 一度口元をぎゅっと結ぶと、綿谷は意を決して口を開いた。

「君は……武に、紗弥ちゃんの影を見たことはないのかい?」

 ずっと黙っていた小雪が目を見開いた。寂しげに眉を下げるその顔を見ながら、やはり聞くべきではなかったかと後悔が押しよせてきた。
 しかし彼女は意外にも口元に笑みを浮かべて言った。

「いつも、見えてました。とても自分には割りこめないって感覚、すごくわかります。でも仕方ないんです。あの二人は同じ悲しみを抱えて生きてきたから。今は少し……薄れた気がします。タケ兄も紗弥ちゃんも、道は違うけれど、きっと明るい方を目指して歩いてる。それに紗弥ちゃんが必要としてるのは、もうタケ兄じゃないんだってわかっちゃいましたから」

 そう言ってにっこりと笑う。自信に満ちた真っ白な歯が、綿谷を不安にさせる。
 紗弥が必要としている人物を、自分は知っているのだろうか――
 思慮をめぐらせていると、カウンターの隅に座った小雪が、綿谷の肩をポンと叩いた。

「もう、しっかりして下さいよ。他人のお世話ばっかりしてないで、ちゃんと自分のことも考えてくださいね」