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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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切れない鋏(番外編)8.綿谷の章 バイバイ、ブラックバード

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 彼女の隣――カウンターの端の席は武の特等席だ。いつもあの席に座ってトランペットを吹いていた。変わらない紗弥の隣には、今も武の幻影が見える。「綿谷さん、ここで音出していいですか」――まるで昨日言われたように脳内で再現される音声が、綿谷の心臓を縛りつける。

 武と紗弥が同じ施設の出身だと知ったのは、紗弥と出会ってずいぶん後になってからだ。
 幼少期にそれぞれ別の家に引き取られ、偶然にも同じ大学のサークル内で再会した彼らのことを誰もが恋人同士だと思っていた。一回生の頃から「紗弥」「武」と呼び合っていたし、二人のあいだで生まれる絶妙な会話のリズムのせいで、疑う余地もなかった。当人たちが違うのだと否定しても、冷やかしの対象になるだけだった。

 綿谷も大多数のひとりだった。武と同じ一軍ビッグバンドに所属し、彼が酒に酔った勢いで紗弥との関係を愚痴るようになって初めて、二人の間には恋愛感情がないことを知った。
 武が追っていたのは、事故死した弟、慎一郎(しんいちろう)と瓜二つの容姿を持つ紗弥の妹だと気づいたあとも、紗弥が誰を想っているのか、綿谷は推測すらできなかった。

 二人は否定しているが、本当のところはどうだったのだろうという疑問が、今でも胸の奥でくすぶっている。
 厨房から上がってきたパスタ皿をさし出すと、紗弥は荒っぽく受け取った。

「あのバカから連絡はないんですか」
「まったく。君のところには?」
「あるわけないでしょう」

 紗弥は綿谷をきつく睨むと、さっさとスパゲティを食べ始めてしまった。長い黒髪を耳にかけて何ともないそぶりを見せているが、食べる手元が怒っている。
 またやってしまった、そんなつもりではなかったのに――そう考えながら、綿谷はこっそりため息をつく。
 貴重な時間をやりくりして足を運んでくれるのだから、少しでもリラックスできる時間を提供したい――その思いでこの店をやっているのに、このところ紗弥を怒らせてばかりだ。

 武がいなくなって今が最良のときだと思うのに、この二年、いなくなった彼の存在は際立つばかりだ。少しはいい雰囲気になった時期もあったのに、そこからどう彼女との距離を縮めればいいのか、わからないでいる。
 せめてものお詫びにと、ランチセットには含まれていない新作のプリンアラモードをさし出すと、紗弥はますます眼力を強めて綿谷を睨んできた。

「頼んでないですけど」
「紗弥ちゃんは舌がいいから、試食してもらおうと思って。君がおいしいって言ってくれたメニューは必ず大ヒット商品になるんだよ」

 ひるんではいけない、と自分に言い聞かせながらブレンドコーヒーをカップに注ぐ。この味に至るまで、彼女にはずいぶん助言をしてもらった。今でも実家に住んでいることもあって料理はほとんどしないそうだが、舌には間違いがなかった。紗弥が毎回注文するようになれば合格点をもらえたことになると、スタッフたちも口をそろえて言っている。

 ソーサーに角砂糖をふたつ添えてさし出す。紗弥の目元がゆるんでくるのを確認して、綿谷はほっと胸をなでおろす。

「……綿谷さんはずるいです」

 うつむいた紗弥がボソリとつぶやく。綿谷は返す言葉がない。
 この数年のあいだに、強がりな彼女からわずかばかりの本音を聞けるようになった。力の入った眉がふとゆるむとき、素顔を見られるようにもなった。

 けれど二人の間にあるこの長いカウンターを、一体いつになったら越えられるのか――文句を言いながらもプリンをほおばってくれる彼女の口元を見つめて考えても、答えはでてくれなかった。

                  ***

「小雪、おっそーい!」

 午後四時になり、ディナータイムの仕込み時間をかねてライブのリハーサルが始まる。久しぶりに同期の三人でピアノトリオを組めると意気込んでいた愛美が、白いグランドピアノから立ち上がって声を上げる。

「ノブなんか張り切って三十分も前から来てたんだよ!」
「ちょっとマナ……それは言うなってさっきから何度も……」

 ドラムセットに座った信洋が、顔を真っ赤にしながら立ち上がる。そこへウッドベースを抱えた小雪があわただしく入店してきた。

「ごっ……ごめん! 出ようとしたら急にリペアの依頼が入っちゃって……」

 息も切れ切れにベースを運ぶ小雪に愛美がかけよる。怒りながらもさりげなく荷物を引き受けるところが愛美らしくて、テーブルをふいていた綿谷はこっそりと笑う。
 その様子を信洋もまた、ドラムセットの影から眺めているようだ。口元が少しほころんでいて、温かなまなざしを向けているようだった。

 大学卒業後、信洋は専門学校に進み、柔道整復師の国家資格をとった。今は整骨院のスタッフをしながら開業する日を目指していると聞いている。
 一方、小雪は大学四年のときに就職活動をしていたようだったが、一般企業には就職しなかった。武がいなくなってから一年の間に島田弦楽器工房に足しげく通い、いつの間にかリペアラーの島田に弟子入りをしていた。

 小雪がベースの準備をするのを眺めながら、愛美が声をかける。

「もうリペアの仕事を受けられるようになったの?」
「まだ見習いよ。島田さんに迷惑ばっかりかけちゃってる」

 小雪はそう言って眉をしかめる。その表情のむこうになぜか紗弥が見えて、綿谷は思わず手を止める。血がつながっていなくても、近頃の小雪の顔にはよく紗弥の面影が見える。

「一人前のリペアラーになったら私の知り合いをいっぱい送りこむからさ。がんばってよね」

 愛美が明るく笑うと、小雪の表情にもわずかに光がさしたようだった。
 専門がベースとはいえ弓も満足に使えない状態での入門だった。工房では他の弦楽器も扱っていることもあって、今はまだアルバイト店員にすぎないと笑っていたことがある。

 学生時代はよくかげりのある表情を見せていたが、リペアラーを目指すようになってからの小雪には力強さが見えかくれするようになった。
 寝る間をおしんで弦楽器の勉強をし、昼間は工房に通いつめ、夜は演奏者としてのレベルを高めるために『ブラックバード』に出演する。決して綿谷に愚痴ったりはしないけれど、その夢の先に何があるのか、綿谷には何となくわかる気がした。
 きっと小雪も紗弥も、自分と同じものを待っている――

 ピアノトリオのリハーサルが始まると、綿谷はカウンターにひっこんだ。ここで出演し始めた頃はよく綿谷に助言を求めてきていたが、最近は彼らだけで音楽を組み立てている。指示を出すのはもっぱらバンドマスターの愛美だが、小雪も信洋も数年前とは見違えるほどの落ち着きを身につけて、多少、愛美の怒号が飛んでも揺るがなくなった。

 ワイングラスを磨きながら、そういえばステージに出たのはいつが最後だったろうと考える。
 後輩たちの頼もしい姿を見て微笑ましく思う一方で、自分は前進どころか後退しているのではないかという疑念は、消し去ることができなかった。


 
 閉店作業を終えてスタッフたちが帰ったあと、綿谷はひとりドラムセットの前に座っていた。
 傷だらけのスティックを握って、バスドラムのペダルに足をかける。