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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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切れない鋏(番外編)8.綿谷の章 バイバイ、ブラックバード

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8.綿谷の章 バイバイ、ブラックバード



 有川武(ありかわたけし)がこの街を出て、二度目の春を迎える。
 ジャズ喫茶『ブラックバード』の店主、綿谷(わたや)がいつものように早朝から開店準備をしていると、よく見知った人物が大きな荷物を抱えて入店してきた。

「お世話になりました」

 そう言って丁寧に頭を下げたのは、武の後輩にあたるトランぺッターだった。
 一時期、武の妹、愛美のビッグバンドで1stトランペットを担当していた彼は、大学卒業後プロの道を目指し、ようやく東京にあるレコード会社と契約を結ぶことができたらしい。
 大学時代からよく『ブラックバード』に出演していたが、昨夜のライブを最後に今日、上京することになっている。

「ここまでくることができたのも、綿谷さんのおかげです」
「大げさだなあ。君の努力のたまものだよ」

 そう言いながら、綿谷は床のモップがけを始める。父親の代から使われている年季の入ったフローリングを丁寧に磨くことが、開店以来の日課になっている。

「あの……武さんから、連絡はないんですか?」
「うんまあ……時々マナちゃんから近況報告は聞くけどね。便りがないのは元気な証拠だって言うし、仕事で忙しくしてるならそれでいいかなと思ってさ」
「もし向こうで会えたら、必ずお知らせしますね」
「ありがとう。君も元気で。活躍を祈ってるよ」

 緑色の眼鏡のふちを持ち上げながらそう言うと、彼は瞳をうるませた。念願の東京でのCDデビューは、同時にこの地との別れを意味する。ずっと見守ってきた後輩が旅立つことに寂しさはぬぐえないけれど、それはまた綿谷が待ち望んでいた日でもあった。

 さし出された華奢な手を、綿谷は握り返した。背が高く威圧感さえある武とは対照的に、後輩の彼は細身で優男で、一見するととても1stトランペットを務められるようには見えない。

 けれど一度トランペットを構えれば、強烈な吸引力を持って観客を魅了してしまう。ある時は春のやわらかな日差しのように、ある時は真冬の寒風のように自在に音色を操る技量に、綿谷は惚れ込んでいた。いつかきっと世界を駆け巡るプレイヤーになる。そしていつの日か「さようならブラックバード。こんなところにはもういられない」そう言って羽根を広げてほしい――そんなプレイヤーを輩出することが、綿谷の開店当時からの夢だった。

 それは武がいたから始まった夢だった。父が急死した時点で閉店するはずだったこの店を、プロプレイヤーを育てる場所に仕立て上げたのは、武がいたからこそだった。

「俺きっと、武さんをつかまえてこの店に戻ってきますから」

 彼はすばやく目元をぬぐってそう言うと、大きなバックパックを背負いなおした。ずいぶん頼もしくなったその表情に安堵しながら、綿谷はうなずいた。
 地上に出て後輩を見送ると、綿谷は地下一階に続く階段を下りた。七年前の開店当初、この階段に貼りだされていたリーフレットには、武の名前が多くあった。

 プロのトランぺッターになるはずだった武は二年前に父親の会社を継ぐと決め、この地を去った。当時、よくこの店に出演していたベーシストの荻野小雪(おぎのこゆき)とドラマーの堤信洋(つつみのぶひろ)も大学卒業後、それぞれの道へと進んだ。

 唯一、武の妹である愛美(まなみ)がプロピアニストを目指し、『ブラックバード』に連日出演している。
 跡を継ぐために上京した長男、高校生のときに事故死した次男の夢を受け継ぐようにして、愛美は日々邁進している。

 ブラックボードに今夜の出演者名を書きこみながら、綿谷は息を吐く。ここに武と自分の名前を書かなくなってずいぶん経つ。世代交代、といえば仕方ないのだろうけれど、やるせなさも抱かずにいられない。

 店主である自分にできることは数多くのチラシをまくことと、リーズナブルな値段で満足のいく料理を提供することだけだ。
 しぼみかけた気持ちを立て直すように背筋を正すと、「よし、今日もがんばるぞ」とつぶやきながら店の中に入っていった。



 午後二時ごろ、ランチタイムの喧騒が引くのを待つようにして荻野紗弥(さや)が入店してきた。
 カウンターの中にいた綿谷を認めると、ほんの少しだけ口の端を上げる。

 彼女の特等席はカウンターの端から二つ目だ。綿谷が水の入ったグラスをさし出すと、大きな黒い鞄を椅子の上に置いて、「いつもの」と口にする。凝り性の彼女はひと月近く同じものを食べ続ける。今は明太子クリームスパゲティにご執心のようだ。

 小雪の血のつながらない姉である紗弥は、薬剤師の仕事をしている。外回りの合間にランチを食べに来るようになって、もう五年になる。初めの頃は月に数回だったのが、今では週に二回は必ずやってくる常連客だ。

 武と同じ大学の同期でもあり、当時はテナーサックスを吹いていた。紗弥たちより二学年上の綿谷も何度か同じビッグバンドに所属したことがある。目立つことを好む武とは対照的に控えめなプレイヤーだったが、一度だけ武のコンボに引きずりだされたことがあった。綿谷もドラマーとして参加していた。

 あの時の『モーニン』を、綿谷は今も忘れることができない。
 カウンター席に座る彼女の隣にある空白を見つめていると、銀縁眼鏡をかけた顔をずいとよせてきた。

「お客の目の前で、考えごと?」

 低い声でそう囁かれて、綿谷は我に返った。サラダの器を手に持ったままだったことに気づいて、あわててさし出す。

「いや……今朝、巣立った子がいてね。僕らも年を取ったものだなあと考えてたのさ」
「それ、乙女にいう言葉?」

 綿谷が取り繕った言葉に、紗弥が返してくる。この意地悪そうな瞳に見つめられるとどうにもくすぐったくて、もっとからかいたくなってしまう。

「紗弥ちゃんはまだ二十八だろう。僕はもう三十をこえてしまったし、すっかりおじさんだね」
「私も二年すれば綿谷さんと同じ歳です」
「世間でいう結婚適齢期だね。誰かいい人はいないの?」

 そう切り返すと、紗弥は口を突き出した。薄化粧の可愛らしいくちびるが、綿谷に向かって怒っている。

「どうしてそんなこと聞くんですか」

 カウンターの一枚板を見つめながら紗弥がつぶやく。綿谷は何も言えず、食事用のカラトリーを並べていく。紗弥はじっとその手の動きを見つめている。今にもかみつきそうな目つきでいるものだから、手の内側に嫌な汗をかいてしまう。
 紗弥は綿谷の手からフォークをもぎとると、顔を上げて言った。

「あのバカがいなくなってから、そういう話ばっかりですね」
「だって君は、武と一緒になるものだと思っていたから」
「見当違いだって、やっと気づきました?」
「うん。バカなのは僕の方だったね」

 そう言いながら、注文の入ったコーヒーを注ぐ。父のときから受け継がれてきた配合を自分なりにアレンジして今の味にたどり着くまで七年もかかった。苦労の甲斐あってか、最近はコーヒーだけを飲みにくる客も増えてきた。