空気のような存在
すぐにカリナが戻ってくると信じていたアツシも、一か月、二か月、三か月と過ぎていくうちに、「ひょっとしたらもう戻ってこないのではないか」という不安に駆られてきた。家事も初めのうちは妹が来てやってくれたが、長続きはせず、家政婦を雇うことになった。しかし、何でも事務的にこなす家政婦をみるにつけ、心のこもったカリナがどんなに素晴らしかったかを思い知らされた。とはいうものの、自分の方から戻ってきてくれと頼むなど全く考えなかった。向こうの方が地べたに頭を擦り付けて、「戻りたい」と頼んだなら考える。そのスタンスは少しも変わらなかったが、内心は早くも戻ってきて欲しかった。そんな思いを伝えるためにメールを出した。だが、メールは実に味気なく『元気か?』とかいう簡単なメールで、それも月に一回程度出すだけである。そのメールを見る度にカリナは苦笑いし、同じように『元気です』と簡単に返信した。
カリナが出ていって一年が過ぎ、再び春が巡ってきた。アツシは取締役に任命された。異例の出世で、有頂天になった。
桜の花が散りかけた頃であろうか、かつて一緒に仕事をしていた立川キヨシが突然、電話を寄越し、久しぶりに会いたい、と言ってきた。彼は親の介護のために、五年前に会社を辞めた。会社にいた頃は、仕事が終わった後によく飲みに行ったである。
酒を飲みかわしながら、昔話をあれこれした。
酔いが回った頃、キヨシが、「介護していた母親が死んだよ。天涯孤独となった」と告白した。
「いつ?」
「冬の終わりだ」
「どうする? また東京に戻るか? 戻るなら、幾つか紹介してやるぞ」
「ありがたいが、もう都会はごめんだ。今の所は何もないが、それなりに充実した日々を送っている。買い物も不便だが、星が綺麗だ。自然のいろんな音が聞こえる。鳥の声、木立のざわめき、風の音。ときどき、このまま死んでもいいかなと思うときがある。もう都会には戻れない。都会の喧騒に飽きた。何よりも、人がいっぱいなのに孤独だということを思い知らされる。実を言うと、お前と一緒に仕事をやっていたときにも、眠れない夜が数えきれないほどあった。寝ていると、ふいに目覚める。それから、なかなか眠れなくて、いろんなことを考える。どうして独りなのか。これからも独りなのか。そんなふうに考えたことは数えきれない。緊急自動車のサイレンがだんだんと近づいてくる音を聞くのも、独りであることを思い知らされ嫌だった。昼間はさほど独りであることに気にならなかったのに。今も独りだが、悩むことはない。日中、畑を耕し、夜は疲れて考える間もなく寝てしまうから」とキヨシは笑った。
「本当のことを言うと、それでも不安を覚えることがある。ずっと前から、それが何であるか気づいていた。誰ともつながっていないことだ。子供がいない。愛する者がいない。誰とも繋がりのない自分は何の意味もない存在で、このまま煙のように消えてしまうのではないか、そんな不安がふいに起こる。その不安はもうどうしょうもない。だから猫を飼うことした。ところで、奥さんは元気か?」
「元気だが、遠くにいる」とアツシは苦笑いをした。
「どうして?」
「俺が嫌になったみたいだ」
「離婚したのか?」
「離婚届を書いて出ていったが、まだ出していない。向こうから催促も来ないからほったらしにしてある」
「別れない方がいいぞ。一人で死ぬのは、滑稽でもあり、同時に悲劇だ」
「そばに誰がいようと、死ぬのは独りだ」
「それでも誰かがいた方がいい。母親が死んで、よく分かったよ。死ぬときは独りだが、それでも誰かに看取られたら、誰かとつながって生きてきたことを思いながら死ねる」
「それで死を納得して受け入れられるのか?」
「納得しようが、しまいが、死は否応なしにやってくる。だが、少なくとも慰めになるだろう。それだけのことかもしれないが。余計なことかもしれないが、奥さんとよりを戻した方がいいぞ」
「仮によりを戻しても、看取ってくれるかどうか分からない。向こうの方が先に死ぬかもしれない。それに勝手に出ていった。俺から戻ってきてくれとは頼めない」とアツシは苦笑いをした。
「強情だな」
「それが俺だ」
春の終わり、緑が濃くなる六月のことである。
トキコがアツシの所にやって来た。
「話があるの」とトキコはもったいぶって言う。
「何の話だ?」
「娘のハナエのことよ」
「戻ってきたのか? 戻ってきたなら、前も言ったと思うけど、養女したい。そのために三百万をやった」
「分かっている。でも妊娠しちゃったの」
「いつ?」
「留学先のアメリカで。それも外人の子を孕んだみたい。相手は同じようにドイツから来た留学生だって」
「音楽の勉強をするために行ったのではないのか? 何で妊娠するんだ?」とアツシは怒った。
「恋に落ちたと言うのよ。で、言いにくいことだけど、アメリカで暮らすために仕送りをしてくれと言うの。相手も稼げないから。とりあえず百万くらい」
「アメリカで暮らす? じゃ、養女の件は消えたわけか。トキコ、俺を何だと思っている?」
「何を言っているのよ。血のつながった大切なお兄様よ」
「違う。今回の件でよく分かった。俺をATM機程度にしか思っていない。だが、もうたくさんだ。金は出さない。それで縁を切るなら結構。ハナエに言ってやれ、これからは一円も援助しないと」
アツシもトキエも瞬間湯沸かし器のようにすぐにかっとなる。
「分かったわよ。兄いさんが、冷たい人間だということがよく分かりました」と言ってトキエが帰った。
その後、アツシは何ともやりきれない気持ちになった。
夏の初め、アツシは突然激しい腹部の痛みを感じて病院に駆け込んだ。昨年の冬の頃から、胃の不快感を覚えていたが、ほったらかしにしておいたのである。検査の結果、ガンになっていたことが判明した。完治するかどうか分からないが、とにかくすぐに治療に専念した方は良いと言われた。
ガンになったことで、今まで描いていた世界が音を立てて崩れていった。何もかも色を失い、味気ないモノトーンの世界となった。しばらく会社を休むことになり、病院と自宅を行ったり来たりする日々が続いた。
秋が始まろうとしていた。
ガンにかかったことをそれとなく、上司に伝えると、治療に専念せよということで、重役の責務を解かれた。おかげで自由な時間が増えた。だが、自由の時間の使い道がなかった。仕事一筋で、趣味らしい趣味も持たなかったのである。
独りでいると、これからのことをあれこれ考え込んでしまい、このまま死んでしまったらどうなるのか? などと思ったりもした。独りぼっちであることに不安を感じて、カリナに会いたくなった。その思いが日増しに高まり、ついに訪ねることにした。
『これから会いに行く』と簡単にメールした。
カリナは冗談だと思って、『冗談でしょ?』と返信した。その後、何の連絡もしなかったかので、やはり冗談だと、カリナは思った。
ところが、メールを返信した数日後の夕食時、家の前でアツシの姿を見たとき、カリナは空いた口が塞がらなかった。そばにハルコもいた。
「誰だい?」とハルコが聞いた。
アツシが答える前にカリナが答えた。
「元夫です」
アツシは苦笑いしながら、「近くに出張があったので、寄りました」