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空気のような存在

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翌朝、何もなかったように夫を送り出した後、カリナは引っ越しのための整理を始めた。嫁入りするときもさほど物はなかった。結婚して二十年、自分のために買ったものもあまりない。田舎暮らしに必要のないものは捨てることにした。引っ越しに必要なものは段ボール箱十個程度に収まった。夫が知らぬ間に、少しずつ新潟の叔母に送った。

カリナが離婚を宣言して五日後の朝、出勤する夫に、「今日、出ていきます。離婚届けはテーブルの上に置きます」
「まだ、そんな他愛もないことを言っているのか。前にも言ったが、出ていくんなら勝手に出ていけ。その代り、二度と戻るな」とうんざりしたような顔で出て行った。
アツシは、「仮に出ていったところで、三日坊主で終わるだろう」と簡単に考えていた。戻ってくるとき、何と言い訳をするのか。むしろ、それが気になった。
夫を送り出した三時間後、玄関に鍵をかけ、郵便箱に鍵を入れた時、長い結婚生活が終わったとあらためて思った。こんなにあっけないものかとも。

東京駅で新幹線に乗り、燕三条駅で降りる。各駅停車の電車に乗り、吉田駅で乗り換え分水駅に着く。そこからタクシーで寺泊の叔母ハルコの家に着いた。
久しく会っていないのに、ずっと会っていたような親しみを込めた顔でハルコは迎えた。
「お姉さんと同じ顔をしているね。やっぱり血は争えないわ」
カリナは二階を借りることになっていた。昔、娘が使っていたと言う。きれいに掃除をしてあった。送った箱が所狭しに置かれている。
箱から荷物を出していたら、ハルコがお茶を持ってきた。
「この部屋は娘が使っていたところなの。娘は北海道に嫁いで、もう十年経つ。初めの頃は年に一、二回来たけど、ここ二年、三年は全く来ないの。たまに電話が来るだけ。それも元気と聞いて終わりよ。娘にも子供ができて、関心は旦那と子供。親のことなんか、どうでも良いみたい。幸せなら良いけど。ところで、あなたは本当に住む気? ここは何にもない所よ。車の運転はできる?」
「ここに住みさせてください。家賃なら払いますから。自転車なら乗れます」
「家賃なんかいらないわよ。食費や電気代とか、そういうのは折半しましょうよ。古い自転車ならあるからあげる。一緒に住んでくれるなら、とても嬉しい。七十になり、体のあちこちが悪い。そのせいか、一人で寝ていると、このまま死んでしまうんじゃないかと思ったり、昔、賑やかだったころを思い出して泣いたりすることもあるのよ。だから、あなたが来てくれて、とても嬉しい」
「明日から野菜作りを教えてください」
「そんな早く? もう少しのんびりしなさいよ」
「一日でも早く覚えたいんです。今まであまり体を使っていなかったから使いたいんです」
「いいのかい、カリナさん、そのきれいな顔が日焼けして、そのきれいな手も汚れるけど」
「カリナと呼び捨てにしてください。生きていることを実感したんです。病気で子供を産めない体になって、毎日が夫の家政婦のような生活でした。ただ夫を待っている。そんな生活でも、夫が愛していてくれたなら、きっと充実していたかもしれません。でも子供もできない私に対する愛情はどこかに消えてしまい、代わりに血のつながった姪を生きる支えにしています。あのまま東京に居たら、きっと心が乾いて砂のようになってしまう。そんな恐怖感に襲われて、夫の知らない所で泣きました。でもハルコ叔母さんが、一緒に農業をやらないかと誘ってくれたとき、とても嬉しかった。夫から離れる決心がつきました」
「泣いているのかい?」
 ハルコはカリナの目が薄らと涙で濡れているのに気づいたのである。
「涙は涸れました」と目をこすりながら微笑んだ。
「あんた、お姉さんにそっくりだね。美人で、芯がしっかりしていて。でも泣きたいときは泣きなさい。それが一番よ」
 カリナの母は、新婚の時に亡くなった。死ぬ間際、「幸せになるんだよ」とカリナの手を握りしめた。その後、夫のアツシが泣きやまないカリナの肩を優しく抱いた。二十年前のことであるが、カリナは今も忘れていない。

 夕食を終えた後、カリナは庭に出た。星が瞬いている。東京では考えられない星が無数に出ている。
自分の部屋に戻って、数少ない友人に転居をしたことを知らせるため、「私は離婚して星の見えることに引っ越ししました。これから野菜作りを始めます」に手紙を書いた。
翌朝、カリナは朝早く起きたつもりだったが、ハルコが先に起きて家の中を掃除している。
「私は何をすればいいですか?」とカリナが聞いたら、
「一緒に朝食を作りましょう」
「その前に、鶏にエサをあげなきゃ。これからは、出来るならカリナにやってほしい。あの子たちはとてもやんちゃで、鶏小屋に入ると、早くエサをくれと、突っつくのよ。痛くて、年寄だからしんどいの」とハナコは大笑い。
ハルコとカリナは二人で朝食を作った。朝食を終えた後、しばらくして畑に行った。そこは、海に迫る低い山の麓にある。
「この山を越えると海よ。ここから水田が見えるでしょ。右も左も水田よ。まず畑を耕し、畝を作り、種をまく。それを繰り返しの。野菜と一緒に草も生えるから草むしりをして、収穫する。また耕し、種を蒔く。キュウリにトマト、レタス、パセリ、ナス、ウリ、スイカ、大根、ジャガイモ、キャベツ、ネギ、タマネギ、長イモ、サトイモ、サツマイモ。家で食べるものは何でも作るのよ。とれたものは、煮たり、漬けたりして食べる。余ったものは農協に出荷する。それで現金を得るの。鶏が卵を生んでくれるから、買うものは肉と魚ぐらいかしら」
「晴れているときは畑仕事ができるけど、雨の日や雪の日は何をするんですか?」
「本を読んだり、日記を書いたりする。まあ、骨休みね。昔は町に行って工場のアルバイトをしたけど、もう年だから家の中でのんびりとしている。カリナ、あなたはどうする?」
「車の免許はあるけど、ペーパードライバーなので、実習を受けて車に乗れるようにします。それから野菜作りを覚えながら、近くで仕事を探します。週に三日アルバイトをして、三日くらいを農業するような生活にします。貯えも少しありますから、何とかなると思います」
「じゃ、今日から始めましょう」とハルコは微笑んだ。
こうして、カリナの田舎生活の第一歩が始まった。

いつしか春が去り、夏が来た。
作品名:空気のような存在 作家名:楡井英夫