空気のような存在
何とも不器用な笑みである。誰が見ても、明らかに嘘と分かる。
「離婚届けを書いたから、もう赤の他人はずよ」
「そうかもしれないけど、まだ役所に出していない」
カリナは呆れた。
「ところで、どこに泊まる気?」とカリナは聞いた。
「まだ、これから探す」
カリナはまた呆れた。
「この辺に旅館なんかないわよ」
「だったら、うちに泊まりなさい。悪い人でなさそうだから」とハナコは嬉しそうに言った。
「良い人でもないです」とカリナが言う。
「一日くらいいいじゃないの。ここまで来たのには、それなりのわけがあるのでしょう。聞いてあげなさいよ。二十年、一緒に暮らした仲でしょ?」
「家政婦みたいな生活でしたけど」
「俺はそんなつもりはなかった」
「食事は済んだの。済んでないなら、一緒に食べましょう。たいしたごちそうはないけど」
夕食の後、「積もる話があるでしょ、カリナさん、ゆっくり聞いてあげなさい」と言ってハナコは消えた。
カリナとアツシは二人きりになった。口火を切ったのはカリナである。
「ハナエさんはどうしたの? 日本に戻ってきたの? 養女にしたの?」
「いや、向こうで外人と結婚すると言っている。おまけに妊娠しているみたいだ。もう日本に戻る気はないようだ。音楽家の夢も捨てたみたいだ。馬鹿だった。ただ血のつながりだけを信じていた自分が」
「あなたの夢が一つ崩れたね」とカリナはほくそ笑んだ。
「一つだけじゃない。会社を辞めるかもしれない」
「どうしたの? 会社は人生そのものだったのに」
「ガンになった。治ると言われたけど、もうハードな仕事は止めた方が良いと言われた。会社を辞めようかと思っている」
「ずいぶんと大胆ね。で、辞めたら、どうするの?」
「まだ、考えていない」
「貯えがあるでしょ。長年の夢だった南の島で、のんびりと暮らしたら」
突き放したような言い方である。
「健康ならそうした。でも、健康じゃない」
「弱気ね。泣き言を言うために来たの?」
「いや、病院に入って、いろいろ考えた。ふと、お前に随分と失礼なことをしたなと思った。だから、まず謝ろうと思って来た」
カリナは夫をじっと見た。まるで今にも泣きだしそうな子供に見えた。許せることではないが、あたかも空気みたいな存在のように扱っていたのは、深い意味があるわけではないことがよく分かった。
「今さら言われても、もう、どうにもならないよ。それに、畑仕事をしているうちに、過去なんか、どこかに忘れてしまった」
嘘をついた。だが、それがカリナの精一杯の矜持だった。
「それも分かっている」
「病気があなたを変えたんだ」とカリナは微笑んだ。
「そうかもしれない」
アツシは、独りで死ぬのは寂しいと言った友人を思い出し、「お前はどう思うか?」と聞こうと思ったが止めた。
深夜、アツシはふいに目覚めた。カーテンを閉めずに寝たので、月明りが窓から差し込んでいて、その明かりのせいで目覚めたのである。時計を見ると、ちょうど午前零時を回ったところだった。
窓から外を眺めると、星が実に綺麗だった。まるで、漆黒の空に無数の宝石がきらめいているように見える。ふと、ここで一緒にカリナと暮らすのも悪くないと考えた。それをどう伝えればいいのか。そんなことを考えているうちに、アツシは眠りに落ちた。
どんなふうに寝ているのかと、カリナは気になってアツシが寝ている部屋をそっとのぞいてみた。すると、布団からはみ出して寝ている。呆れたカリナはそっと布団をかけてやった。穏やかな寝顔に懐かしさと同時に愛しさを感じている自分にカリナは驚いた。