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空気のような存在

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『空気のような存在』

おとなしい妻のカリナ怒った。
「なんで、姪を援助しなきゃいけないのよ」
大手商社に勤めている夫の西村アツシが、姪っ子のハナエに留学資金の三百万を出すと言い出したのである。今のうちに援助しておけば、恩を感じてくれて、いずれ養女の話をしたときに承諾してくれるのではないか、とアツシは考えたのである。妹のトキコには話をしていたが、妻には話をしていなかった。
「留学から戻ったら、養女にするつもりだ。妹とも話がついている。いいか、俺が稼いだ金だ。どう使おうが勝手だろ」とアツシは平然と答える。
畳み掛けように「お前は専業主婦だ。悠々自適な生活しているだろ? 食わせてやっているのは俺だ。何の不満がある。不満があるなら、出ていけ。そもそも子供を作れなかったお前が悪い」
カリナは顔を饅頭みたいに膨らませ怒りをあらわにするものの何も反論しなかった。子供以外のことを言われたなら反論しただろう。しかし、子供のことを言われたら逃げ場はない。随分と前に片が付いている話だと思っていた。それをいまさら持ち出すとは。カリナの中で何かが弾けた。目にいっぱい溢れた涙を拭おうとせず、じっとアツシを見ている。
「分かりました。好きにしてください」
カリナも姪が嫌いではない。どちらかといえば好きだが、血がつながっていない。ただ単に夫の妹の娘というだけである。三人の子供がいるトキコは、何か困ることがあると夫に頼る。
「お兄さんのところはいいわよね。子供がいないから。うちは、旦那の稼ぎが悪いのに、三人もいるから大変よ」と口癖のように言う。幼稚園に上がるとか、中学に上がるとか、塾に入るとか、いろんなことにかこつけて、金の無心に来る。それも隠れてやるならまだしも、堂々とカリナがいる前で言う。まるでカリナが目に入らないのかのように。それとも兄と妹の間には太い絆があって、その絆に比べれば夫婦の絆など、細くて弱いものだと言わんばかりである。それでもカリナはじっと抑えてきた。病気で子宮を失い子供ができなかったことや、別の病気で働けなくなったという負い目があったから。だが、空気ではない。一人の人間であり、病気をしたが、誰よりも夫を支えてきたという自負があった。その自負を夫が叩き壊した。無論、アツシはそんなつもりはなかったし、そんなふうに思われているとも思わなかった。
アツシの援助によってハナエの留学が決まった。

四月、旅立ちの前日のことである。
「みんなでハナエを見送るために羽田に行く。お前も行かないか?」とアツシは嬉しそうに妻を誘う。半年前に、留学費用の援助のことで、カリナと揉めたことなどすっかり忘れていたのである。
「みんなで行ってください」とカリナは憮然と答えた。
「お前もハナエのことが好きだと思っていたけど、違ったか?」と新聞を見ながら呟くようにアツシが言う。
「嫌いではありませんが、行きません」
「用があるのか? それならかまわない」
カリナに用などなかった。行きたくなかっただけである。しかし、つまらないことで喧嘩はしたくなかったので、カリナは反論しなかった。
アツシは実に単純明快な人間である。相手が反論しないのは、自分の推論や考えが正しいと勝手に解釈してしまう。今までそれでうまくいってきた。ただ単に運が良かっただけの話だが、それで失敗したことがなかったのも事実である。振返れば、アツシの半生は順風満帆と言って良かった。一流大学にストレートに入り、N女子大で一番の美人といわれたカリナと学生結婚し、一流企業に入った。同期でもっとも早く課長になり、既に部長にもなっている。ゆくゆくは経営幹部になるのではないかとも言われている。思い通りいかなかったことがあるとすれば、子供ができなかったことぐらいであろう。だが、それも、姪のハナエを養女として迎えることで解決できる。
将来に対しても何の不安もなかった。ハナエが留学から戻ったら、養女になってもらい、適当な時期に結婚させ、子供を作ってもらう。そんな夢を描いていた。ただ、その夢の絵に妻の居場所を考えていなかった。軽んじていたわけではなかったが、いつの間にか、空気や自分の影のような存在程度しか考えていなくなっていたのである。

アメリカに留学に旅立つハナエを見送ってきたアツシに、カリナはあらたまって言った。
「お願いがあります」
「なんだ。そんな神妙な顔して?」
「言い難いことですが、別れてください」
あまりにも唐突なことだったので、アツシは思わず吹き出してしまった。自分の方から離婚を言うならまだしも、何のとりえもない妻の方から言い出すなど想像もしたことがなかったからである。
「他に好きな男でもできたか?」
カリナはかつて美人であったが、今はその面影はない。そんな女を好きになる物好きなどいないだろうと言わんばかりである挑発的な口調である。
「からかわないでください。本気ですから」
「なぜだ?」
「あなたは、ハナエさんを養女にすると言っていました。そうしたら、血のつながりのない私の居場所はありません」
「言われてみれば、そうかもしれない」とアツシは思った。
「隅っこで、惨めに生きるより一人で生きます」
「どうやって、一人で生きる? 手に職もないお前に何ができる? 血のつながった親も兄弟も子供もいない。支えてくれる人は誰一人いない。いったい、どうやって生きていこうと言うのだ?」
「その気になれば、何でもできます。まだ四十二ですから」
 カリナには夢がある。新潟に住む叔母は体の具合が悪く、「もう一人では農業をやれない」と言うのをちょうど半年前に聞いた。その時、カリナは、「自分に農業をやらせてほしい」と頼んだのである。すると、叔母は、「本当に農業やりたいなら、土地と住む所を貸してやっていい」と言ってくれたのである。そんなやりとりをしているとき、姪の留学援助と養女するという話があった。夫が描く絵に自分の居場所がどこにもないことを知り、別れて農業をする決意を固めたのである。空気のように軽んじる夫の情けにすがって生きる方がはるかに楽だが、その代償として一人の人間としてのプライドを捨てないといけない。苦労しても誇り高き生き方が良いと考えたのである。
「俺はかまわない。出ていきたければ出ていけ。お前がいなくなったら、他の女と一緒になるさ。だが、出て行ったなら、二度と戻ってくるな。絶対に入れないからな」
 脅せばどうにでもなる。何だかんだと言っても、所詮、相手は何もできない女だと高をくくっている。ここでもアツシは大きな過ちを犯した。
「その覚悟はあります。トキコさんにも、何かあったらよろしくと、話をしてあります」既に運送業者の手配も済んでいる。
「トキコは何て言っていた?」
「笑って、冗談はよしてよ、と言いました」
「それが普通だ。お前は狂っている。風邪でも引いて熱でもあるんじゃないか?」
「俺はもう寝る」とふてくされたような顔をして寝室に入った。
作品名:空気のような存在 作家名:楡井英夫