腐ったりんご
「何もしていないと、頭がおかしくなってしまいそうだから、働いくことにしたの。ハナコさんという人に紹介してもらったパン屋で働いている。トラジロウさんと言う人がやっている店なの。毎日、失敗ばかりして怒鳴られている。口は悪いけど、とても良い人なの。働くって大変だけど、生きていることが実感できる。生きるって、自分で働いて、自分の金で食べる。それが基本だってハナコさんが言っていた。だから、これからなるべく自分のものは自分で買う」
ヤヨイは黙ってうなずいた。
「お母さん、家から追い出されてよかったと思っている。あのまま家に閉じこもっていたら、自分の殻の中に閉じこもったままでいたような気がする。でも、今は殻から抜け出し、落ちた穴から這い上がろうとしている」
「良い人たちに巡り合ったのね。大切しなさい」とヤヨイは涙声で言った。
母の後ろ姿が何となく小さくなったように見えた。自分がいろんな心配をかけてしまったせいだろうと思わずにはいられなかった。
公園で、いつものように一緒に昼食を取っているとき、突然、ハナコが「私の家に遊びにきなさい。前も言ったけど、すぐそこよ。目の前のビルを通り過ぎ、大きな川を渡り、その先にある古い家やアパートがたくさんあるところよ」と言い出した。
「確か、のぞみ町一丁目でしたよね?」
「そうよ、望みなんかない、年寄りがたむろする町よ」とハナコは笑った。
店を終え、ハナコの家に向かった。のぞみ町は姥捨て山と呼ばれる。若者は全くと言っていいほどいない。居るのは老人と猫だけ。周りくねった路地が迷宮のように入り組んでいる。よそ者が入ると、なかなか思い通りに進めない。マリコも迷いこんでしまい、ハナコに電話しようかと思案にくれていたら、偶然にもハナコとばったりと出会った。
「来てくれたのね」とハナコは嬉しそうに言った。
「迷子になりかけました」
「ここは迷路のように複雑だから。偶然にも会って、良かった。ちょうど郵便局に用があって、今はその帰りなの。ところで夕食は終わった?」と聞いた。
「いいえ、まだです」とマリコは素直に答えた。
「たくさん、作ってしまったの。最近体の調子が悪くてあまり食べられないから、ちょうどいいわ。一緒に食べましょう」
ハナコの家は長屋みたいに古い家が並んだ一角にある。家の中は実にこぎれいに片付いている。居間の窓のところに白い猫がちょこんと座っており、二人の姿を認めると、眠たそうな顔で鳴いた。
「よく落ちないものですね」
「あの場所がお気に入りなの。変でしょ。落っこちそうなところや狭いところが大好きなの。猫の習性みたいね。前に紹介したミーよ。子猫の頃から育てたの。子猫の頃はあちこち飛び回っていたけど、今ではあまり動かない。いつも私の近くにいる。まるで見守っているみたいに」
ハナコが台所に行ったとき、何気なくテーブルに置いてあった手紙を見た。ハナコの娘からだ。名前はタチバナ・ミナコ。住所はみたら隣町だった。行ったことのある場所である。
食事を終えた後、ハナコが「ワインを一緒に飲みましょう」と言って、グラスにワインを注いだ。
酔いが回ったのか、ハナコは「心残りが一つあるの。孫がどんなに成長したか、見てみたい」と呟いた。
そのとき、今まで世話になった恩返しをするために孫の写真をもらってこようとマリコは決めた。
日曜日、マリコはハナコの娘であるミナコを訪ねた。
立派な家だった。玄関のベルを押すと、ミナコが出た。ハナコに世話になっていることや孫の成長した姿を見たがっていることを話し写真をくださいと頼んだ。
「余計なことをするのね」
「余計なことだけど、恩返しを少しでもしたいのです」
「お母さんに頼まれたの?」
「いいえ、私の独断できました」
「あの人は決して人に頼まない」
「お母さんのことを恨んでいますか?」
ミナコは大笑いした。
「いいこと、みんな遠い昔の話よ。昔のことを忘れはしないけど、恨みも、憎しみも、みんな、きれいに消えたわよ。悲しかったことも、みんなよ。結婚して、子供ができて、子育てに追われ、今になっている。ただそれだけのことよ。あなたも結婚すれば分かる。今は何も思っていない。お母さんの方から来たら、迎えてやるけど、来ない限り何もしない。それが二人の間にできたルールなの。今さら変えられない」
「分かりました。さっきも言ったけど写真をください。娘さんの。一枚でいいから。頼まれたわけではないけど、あげたいんです。ハナコさんに」
「良いわよ。一枚くらい。でも、本当に顔を見たかったら、自分の足で来なさいと言っておいて、こっちからは行かないから」
「分かっています。一枚の写真で良いのです。一つだけ忘れないでください。ハナコさんはガンです。自分では、いつ死んでいいと言っています」
「本当なの?」
「こんなことは冗談では言えません」
ミナコは写真を渡しながら、「マリコさん、あなたみたいなお節介の人、嫌いじゃないわよ」と微笑んだ。
パン屋で働いて一か月が過ぎたことを、マリコはすっかり忘れていた。帰り際にトラジロウから一か月分の給料が渡されると、感動のあまり涙が流れてくるのを抑えることができなかった。
帰る途中、文房具屋で写真縦を買った。貰った孫の写真を入れて、ハナコの家を訪れた。玄関先で写真縦を渡すと、
「何も聞かないで受け取ってください」と言った。
写真縦を見たハナコは嬉しそうに「私のためにわざわざもらってきたの?」
マリコはうなずいた。
「今日、はじめて給料もらったんです。思ったより少なかったけど。でも、とても嬉しかった。ハナコさんに世話になったから、少しでも恩返しをしたくて貰ってきました」
マリコは話をしながら、いつしか涙声になっていた。
ハナコはたった一言「ありがとう」と呟いた。だが、マリコはそれで十分だった。
パン作りを自分で勉強して一週間過ぎたときのことである。
「一人でパンを作ってみました。食べてみてください」とパンをトラジロウに差し出した。
「自分で食べてみたか?」
マリコはうなずいた。
「うまかったか?」
「自分ではよくできたと思っています」と目を輝けてマリコは答えた。
トラジロウはパンをちぎって一口食べた。よく噛んだ。
「どうですか?」
「まずくはない」
「それだけですか?」
「それだけだ。文句はあるか? 明日から、パン作りも、手伝うか?」
「はい」とマリコは快活に答えた。
その夜、トラジロウはハナコに電話した。パンを作ってきたことと、何か目に輝きがともってきたことを報告した。
「トラジロウさんもそう思う。実をいうと、私もそう感じているの。何か生きの良い魚みたいな目をしている。きっと深い穴から抜け出したのよ。トラジロウさんのおかげね。感謝している」
「俺は何もしていない。彼女自身の力だ。若いから、生きようとするバネも強いんだよ」
ケンタロウが倒れたという知らせが、ヤヨイからマリコに届いた。
「大丈夫なの?」と聞くと、
「脳梗塞で倒れたけど、命に別状がないみたい」
「じゃ、後で見舞いに行く。でも、お父さんを許していないから」