腐ったりんご
「ひどいことを言ったから? お父さん、悔やんでいたけど、うまく言えないのよ。口は達者だけど、案外、不器用な人間なのよ。許してあげて、お願いよ」
ケンタロウが病院に入院していると、上の二人の娘たち、つまり長女と次女が見舞いにやって来た。寝ている傍らで、死んだときの遺産の分配の話になり、もめてしまった。家は誰が継ぐか、財産はどう分けるか。そんな話で盛り上がったのである。目を覚ましたケンタロウは娘たちに向かって、「お前らに財産は残さない、もう帰れ!」と怒鳴った。長女も、次女も、売り言葉に買い言葉で、「分かったわよ。帰るわ。もう二度と来ない」と怒って帰ってしまった。
娘たちが帰った後、ヤヨイが来た。
ケンタロウは「ところで、マリコはどうしている?」とヤヨイに聞いた。
「毎日、パン屋で働いているみたいです」
「会ったことがあるのか?」
「何度か会いに行きました」
「そうか」
「パン屋か。他に良い所があるだろ。何で、パン屋だ?」
「ハナコさんという親切な人が紹介してくれたみたいです」
「俺のことを嫌っているだろう?」
「嫌っていないと思います。でも、怒りは収まっていないと思います」
「ずっと考えていた。なぜ、マリコが家宝の壺を割ったのか? あの時は、後遺症のせいで頭がおかしくなったと思った。施設かどこかにぶち込んでやろうとも思った。でも、病院でずっと考えていた。壺なんかよりも大切なものがあると言いたかったのではなかったのかと思えてきた。つまらん、想像だけど」
「当っていると思います。あの子は賢い娘ですから」
「出ていけ、と言った俺を許せないだろうな」
「時間が経てば、何もかも許せると思います。それに、マリコは言っていました。家を出たから、いろんな人たちと巡り合い、いろんなことを教わることができたと」
数週間後、ケンタロウは退院した。
マリコは父を見舞うために実家に戻った。途中スーパーでりんごを買った。りんごは売れ残ったものだった。
縁側に父がいた。
「お見舞いです」と袋を差し出した。
「今の私には、これくらいしか買えません」
父が袋を見た。
りんごが入っている。不ぞろいのりんごで一部変色しているものもある。
「少し痛んだりんごも、不恰好なりんごも、丸くてきれいなりんごも、りんごに変わりません。みな食べられます」とマリコは淡々と言った。
ケンタロウは何も言わなかった。
マリコが帰った後、ケンタロウはヤヨイに言った。
「マリコはやっぱり俺のことを嫌っている」
「嫌っていたら、来ませんよ」
「でも、ニコリともしなかった」
「それが、今のマリコの気持ちです。自分の気持ちに正直なだけです」
「正直なだけか……」とケンタロウは絶句した。
「ところで、あのりんごを捨てます?」とヤヨイが聞いた。
「どうして、そんなことを聞く?」
「もし、捨てるようでしたら、私も、この家を出ます」とヤヨイは微笑んだ。
「お前も、俺を捨てるというのか」
ケンタロウはヤヨイを見た。微笑んでいるが悲しんでいるのかよく分からなかった。だが、口は厳しく閉じている。言葉に偽りはないと言いたげである。
「俺にも分かったよ。自分も脳梗塞にあって、手が少し不自由になった。今までの自分の考えが間違っていたことを痛いほど思い知られたよ。誰もが弱い人間になるってことにも気づいた。マリコは許してくれるだろうか?」
「時間はかかると思うけど、許してくれると思います。だって、優しい娘ですから」
ケンタロウはヤヨイの目が薄らと濡れていることに気づいた。
「見舞いをちゃんと持ってきたのは、マリコだけだった。あとの二人の娘はみんな俺の体より、遺産のことを心配していた」
「よそに嫁にいけば、いろいろあります。子供ができれば、子供のことを最優先に考えます。それが母親というものです」
「分かっている。でも、寂しいな」
「マリコが働いているところを見て来なさいよ」
「会ってくれるか?」
「今日、来たのです。きっと会ってくれるでしょう。それよりも、マリコが買ってきたりんごを食べましょう」
「すぐには、行けないな。もう少し、気持ちの整理をしないと」
「整理をする必要があります? 整理しない方がたぶんうまく伝わると思います」となおもためらうケンタロウの背中を押す。
その夜、ヤヨイはマリコにケンタロウが行くかもしれないと電話で告げた。
数日後、ケンタロウはパン屋を訪ねた。店の中に入ると、マリコは次から次と来る客の応対をしていた。マリコに近づいて「パンを買っていいか?」と聞いた。
「いいよ」とマリコが答えた。
「一緒に食べたいけど、いいか?」
「近くに公園がある。いつもそこで食べている。もう少ししたら、客が減るから、そこで待っていて」
「そうか」
公園でケンタロウは待った。しばらくして、マリコが来た。
二人で静かにパンを食べた。
「脚を悪くなって、お父さんに追い出されて、ずっと一人で考えた。どうして、自分だけ不幸になったのかと。抜け出せないような深い穴に落ちてしまったとも思った。でも、私よりもはるかに深い穴に落ちている人がいることを知った。パン屋の主人のトラジロウさんは火事で大切な奥さんを亡くした。仕事を紹介してくれたハナコさんは、娘さんと疎遠な関係で一人暮らしをしている。そのうえガンになっている。少し脚が不自由になった私よりもはるかに不幸なはずなのに、二人とも明るい顔をして生きている。私は神様なんかいないと思っていたのに、ハナコさんは神様に感謝しながら生きている。トラジロウさんと一緒に仕事したり、ハナコさんと話をしたりしているうちに、生きていること自体がとても幸福なことだと少しずつ分かってきた。事故に遭わない方が絶対に良かったと思っているけど、そうしたら、何だか薄っぺらな人間で終わってしまうような気もする。それはそれで良いかもしれないけど。今は、何が良いのか、悪いのが、よく分からない。ただ、今を良いと思わなければ、生きいけない。そんな気がする」
「お父さんのことを、その薄っぺらな人間と思っているだろ?」
「前はそう思っていた。でも、今は分からない。お父さんも脳梗塞で手が不自由になったんでしょ。私と同じ弱い人間になった。でも、弱いとか、強いとか、普通だとか、普通でないとか、そんなことをいちいち区別する必要がないと思っている。ハナコさんが教えてくれた。少しくらい虫が食っていても、少しくらい痛んでいても、りんごはりんごだって。トラジロウさんが言っていた。みんな何かの役に立つために生まれてきた。少し痛んでいたから捨てるのは間違っていると。私もそう思う」
ケンタロウは微かにうなずき、「パンを作れることができるのか?」と聞いた。
「作れるけど、まだまだ、これからよ。やっとパンを売ったり、掃除をしたりすることができるようになった。店番もできるようになった。パン作りも少しだけできるようになった。でも、まだ教わっている最中よ。どれくらい時間がかかるか分からないけど」
「そうか、うまく出来るようになったら、食わしてくれ。毒見係はごめんだけどな」
食事を終えた後、ケンタロウは「出ていけと言ったこと許してくれ」とポツリと言った。
「私も壺を壊したことを謝る」とマリコは言った。