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腐ったりんご

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「世の中に完全な善なんかないわよ。どんな良いことでも幾分かの偽善は混じっているものよ。それでも助けになるなら、それは良いことよ。私はそう思う。良いことを言うけど、そのわりには何もしない人たちがいる。それが一番の良くないこと。そう思わない? 私はそう思う。ハスの花は汚れた泥の中で育つ。花をとれば、泥も一緒についてくる。泥があっても花はきれいよ。そういえば、私の娘も、私のことをよく偽善者だと言って非難していた。教育者という仮面をつけているけど、人の道から外れているというの。夫を失って五年目のことね。ある男性を好きになった。一緒に楽しそうに歩いているところを娘に見られたの。娘はまだ中学生で多感な年ごろだった。父親以外の人間を愛することが許せなかったのね。その頃から、娘が文句を言うようになった。あまりにぶつぶつ文句を言うから、つい言い返してしまったの。あんたがいるから、私が幸せになれないと。あの時、私はまだ三十代後半で若かった。まだ恋というものに憧れがあった。でも、後悔はしていない。他の人を好きになったことも、教育者という仮面をつけて生きてきたことも。みんな仮面をつけて生きている。完全に善良な人間なんて、いないわよ。いたら、きっと神様ね。でも、歳をとって、死が近くなってますます確信している。心のこもった偽善の方が薄っぺらな善よりもはるかに良いと」
「トウジロウさんは、どんな仮面をつけているの?」とマリコは聞いた。
「あなたに見えているとおりよ。でも、笑っている顔も、怒っている顔も、どれも彼自身よ。仮面かもしれないけど。誰も同じよ。怒っている顔、笑っている顔、泣いている顔、澄ましている顔、それらが集まって、その人ができている。バラの花びらが重なってバラの花ができているように。一つ一つは偽りの仮面かもしれない」
 マリコとの電話が終わった後、ハナコはトラジロウに電話して、「もう少し、マリコさんを働かせてやってよ。今、必死にもがきながら、落ちた深い穴から抜け出そうとしているのよ。だから、もう少し働かせて」とお願いした。

 次の日、その次の日も休んだ。そして、三日目の夕方、近くのスーパーに買い物をした帰り、偶然にも幼い姉妹を目撃する。四人の女の子たちに囲われていじめられているのだ。四人の女の子たちは、おそらく上の子、すなわち姉の方の同級生だろう。四人組は次々と悪口を言う。
「何か匂うよね」
「臭い」
「汗臭い服を着ている」
「洗濯をしていないんだよ。貧乏人だから」
「ちゃんと洗っている」と妹が反論する。
「貧乏っていやだよね。同じような服ばっかり。冬も夏も」
妹が泣き出す。姉はじっと我慢している。
マリコは見ていられず、いじめを止めさせる。
「あんたたち、何をやっているのよ。先生に言いつけるわよ」とマリコが怒鳴ると、四人組はあっという間に消えた。
泣いている妹の頭を撫ぜながら、
「もう泣かないで、一緒にお菓子を一緒に食べよう」
「いらない」と姉が言うと、「食べたい」と妹が言う。
「近くの公園で一緒に食べよう」と言うと、妹が嬉しそうな顔をした。
マリコは二人を公園に連れていき、チョコをあげた。
「学校は楽しい?」とマリコがわざと聞いた。
姉が「いじめっ子がいるけど、別に気にしない。勉強がすることができるから好き」
 すると、妹が「お姉ちゃんは頭が良いんだよ。塾に行かなくとも、一番なんだよ。医者になるんだって、すごいでしょ」と誇らしげに言った。
「医者になって、どうするの? お金持ちになりたいの?」とマリコは聞いた。
「違う。困っている人たちを救うの。お父さんは貧しくて、医者に診てもらうことができなかった。だから、死んだの。私は医者になって、そんな貧しい人を救う」と姉は答えた。
それを聞いて、マリコは恥ずかしさを覚えずにはいられなかった。なぜなら、姉はまだまだ子供なのに立派な志を持って生きている。それに反して大人であるはずの自分は自分のことしか考えていない。そのうえ、小さなことにこだわっている。考えれば考えるほど、そんな自分がみじめで、同時に滑稽に思えてきた。同時に、もう一度、ちゃんと働こうと気持ちを新たにした。

 四日ぶりにマリコはまた働き始めた。ケンタロウは何も言わなかった。マリコも何もなかったように働く。店が終わった後、マリコは言った。
「ごめんなさい。この前は言い過ぎました。また働かせてください」
「もう働いているだろ。でも、うちは儲からないぞ。ハナコさんから聞いたよ。君のお父さんは名士だというじゃないか。お父さんに頼めば、働き口は幾らでもあるだろ?」
「でも、ここで働きたい。自分の力で働きたい」
「別にいいけど」
アパートに帰る途中、本屋でパン作りの本を探し買った。ひそかにパンを作る練習を始めるためである。

 トラジロウがスーパーで売れ残ったようなりんごやオレンジを買ってきた。そして丁寧に皮をむき、悪いところを包丁で切り取った。
「どうするんですか?」とマリコが聞いた。
「これでジャムを作る」
「腐りかけのものより新鮮ものが良いんじゃないですか?」
「捨てるにはもったいない。悪いところを切り取れば、使い道がある。少しくらい悪くなって、簡単に捨てる人間は嫌いだ。りんごはオレンジも生まれてきたからには、食べられなければ、かわいそうだ。みんな何かの役に立つために生まれてきた。それを簡単に捨てるわけにはいかない。俺は高いパンを作りたいと思わない。安くておいしいパンを作りたいんだ。それが俺のこだわりだ。高くておいしいパンなら、誰でもできる」
 みんな何かの役に立つために生まれてきたというのを聞いて、自分よりもはるかに思慮深いことを思い知らされた。考えてみれば当然のことだった。火事で最愛の妻の亡くし、そのうえ体にひどいやけどを負ったのである。パン屋を開くまで、どれだけの苦労があったのか。マリコは自分が落ちた穴はさほど深くなく、トラジロウの方がはるかに深い穴に落ちたのだとあらためて思い知らされた。しかし、その穴に落ちたことが想像できないほど明るい笑顔を浮かべる。それは仮面かもしれない。が、その仮面は偽善というよりも、他者と接する礼儀のようなものだろうとマリコは思った。何もしないと、涙がこぼれそうになったので、「私も皮をむいていいですか?」とマリコは聞いた。
「いいけど、きれいにむけ。良いところは捨てるな」

 その夜、ヤヨイが訪ねてきた。実をいうと、独り暮らしをするようになってから、月に何度か訪ねてくるようになったのである。その際、娘のためにあれこれ買ってくる。
大きな買い物袋から、たくさんの食料品を出すヤヨイに向かって、
「お母さん、もう買わなくともいいから」と言った。
「どうして?」
「パン屋に働いているから、自分のものは自分で買う」
「パン屋で? 本当にそうなの?」
作品名:腐ったりんご 作家名:楡井英夫