腐ったりんご
「家に閉じこもっていないで、外に出て生きていることを実感してほしいからよ」
「父は小さい頃から一族がどんな優れているか自慢していた。一族には、犯罪者も頭がおかしい者も障害者もいない。みな優秀で、弁護士、医者、議員、会社の重役になっている。昔の貴族院の議員にもつながる貴い血筋だと自慢していた。その由緒正しき血筋はこれからも守らないといけない。そのためには、汚れたものに触れない。手を汚さない。それが一番いいと言っていた。でも、私はそんな一族の面汚しの障害者になってしまった」
「それは事故のせいでしょ。あなたのせいじゃないわ」
「でも、結果が全てです」
「あなたはまだ深い穴か抜け出せないのね。でも、冷たい言い方かもしれないけど、深い穴に落ちているのは、あなただけじゃない。世の中には、たくさんいるのよ」
「ハナコさん、分かっています。分かっていますけど、気持ちがまた駄目なの」
「生きていると、だんだんと重荷や悲しみが増えていくの。それに耐えられなくなったとき、神様が良いように天国に召すのよ。私はガンで、治療を受けているけど、もう治らない。もう、いつ死んでもいいと思っている。それなのに、なかなか死なない。人間って不思議よね。死でもいいと思っている人が死なずに、反対に死ぬのが嫌だと泣いている人間が案外あっけなく死ぬ。あなたは腐ったりんごなら、私は死に損ないよ。いいこと、マリコさん、あなたはまだ二十一でしょ、私の四分の一の人生しか生きていない。私からすれば、あなたの人はまだ真っ白。いろんな可能性があって、いろんなものを描ける。いろんなことが待っている。いつか心躍らせる日々がやってくる」
マリコはハナコを見た。笑っている。とても幸せそうに見える。でも、その裏側で泣いている顔もある。そんな気がした。
「働きなさい。あなたを見ていて、ずっと、そう思っていた。でも余計なことを言って、気分を害しても悪いと思って、ずっと言わなかったけれど、働きなさい。働けば、きっと腐ったりんごなんかじゃないと分かるわよ。でも、何ができるの? 何がやりたいの?」とハナコは聞いた。
「ずっと前から働こうかなと思っていました。何ができるか、あれこれ考えましたけど、結局、何もできないことが分かりました。おかしいでしょ? それに何がやりたいかも分からない」
「今の娘たちは、みんな、そうよ。親が甘やかすから、何もできない。大人になっても、親と一緒に暮らしているのがよくないのよ。一人暮らしをすれば、掃除も、洗濯も、料理も、自分一人でしなければならなくなる。そうすれば、自然と身に着く。ところで、マリコさん、あなたは掃除くらいできるでしょ?」
「下手です」
「料理も?」
「料理も、裁縫も、パソコンも、何もかも下手です」
「それなら、黙って私についていらっしゃい。いいところを紹介してあげる」
食事を終えると、ハナコはマリコを連れてパン屋に入った。
パン屋の主人カトウ・トラジロウに向かって、ハナコは、「トラジロウさん、この娘、マリコさんと言うんだけど、働かせてあげて。脚が悪いけど」と頼んだ。
トラジロウはマリコに向かって「何ができる?」と聞いた。
「何でも教えればできるようになります。脚が悪いけど」とハナコが代わって答えた。
「パン作りと脚は関係ないが、人を雇えるほど、儲かってはいないよ、ハナコさん」とパン屋は照れ臭そうに笑った。
「掃除とパンを売ることぐらいはできますよ、トラジロウさん」となおもハナコが言う。
「でも、給料はあまり払えない」
ハナコは「それでも、いいでしょ?」とマリコに向かって言う。
マリコはうなずく。
「掃除なんかしたら、そのきれいな手は汚れるぞ」
「手は汚れてもいいんです。いえ、汚したいんです」とマリコは言った。
次の日、マリコは朝早く起きると、急いで着替えをして、パン屋に行った。店に行くと、すぐに掃除し、洗い物をする。だが、どれも中途半端で、トラジロウに「下手くそ!」と怒鳴られた。
何かをやる度にトラジロウは「いったい、今まで何を教わってきた」と怒鳴る。そんな日々が続いたあるとき、怒鳴られて腹に据えかねたものがあったのか、マリコがむっと怒った顔をトラジロウに向けた。
「怒りたいが? 満足にできるようになったら、文句を言え。手を休めるな」
なおも怒鳴られる日々が続いた。
七月の下旬のある日、店じまいしようとした夕方のことである。上が小学生四年生くらいで、下が一年生くらいの、幼い姉妹が外から店の中をじっと眺めているのを見つけた。マリコが幼い姉妹のことをトラジロウに告げると、トラジロウは外に出て幼い姉妹と話をした。そして、売れ残ったパンを渡した。
姉妹は「ありがとう」と言って受け取る。姉妹が去った後、マリコはお金をもらわなかったことを非難する。
「ただであげたの? ただであげるのは良くない。だって、この世の中にただに手に入るものなんか、何もないのよ」
「いいんだ。二人とも、お腹を空かしている」
「今日あげたら、明日も来る。明日もあげたら、また次の日も来る。ずっと続いたら、どうするの?」
「そうなっても、あげる。あの子たちはお腹を空かしている」
「善意? それとも自己満足。いいえ、偽善よ」
「自己満足で何が悪い。偽善で何が悪い。」
「馬鹿みたい」
「馬鹿でいいんだよ」
「髪はぼさぼさ。みずぼらしい服も。あの子の母親はどんな人だろう。あんな恰好させるなんて」
すると、パン屋は怒鳴った。
「きっとあの子たちの母親は生きていくだけで精一杯なんだ。だから悪口を言うな。悪口を言うなら、出ていけ」
マリコは怒ってパン屋を出た。
アパートに戻って冷静になって考えた。なぜ、あの子たちの事情も知らずにトラジロウと喧嘩したのか。
マリコはハナコに電話をした。トラジロウが幼い姉妹にパンをただであげたことを話した。
「私はよくないことだと思う。偽善だと思う」とマリコは言った。