腐ったりんご
「ずっと、小さい頃ですけど、青い空が好きだった。空だけを描いたことがあった。でも、雨が降り続いた、ある日、雨が止んで、水たまりを見たら、青い空を映していた。それが面白くて、それを描いたら、先生に褒められた。そのとき、ずっと絵を描き続けようと思ったんです。でも事故に遭ってから、あまり描かなくなりました。引っ越して、アパートの部屋から、外を眺めていたら、ふと絵を描き続けようと思った昔を思い出して、また絵を描こうと決意しました。絵描きになろうとは思っていないけど」
「私は描くことはできないけど、絵を観るのは好きよ。あなた、田中一村という画家を知っている?」
「知りません」
「あまり知られていないけど、とてもすばらしい絵を描くのよ。彼は自分の生涯を飾るための絵を描くために奄美の島に移り住み、十九年間、貧しい生活を送りながら描き続けた。彼の絵は、一点の曇りもない、彼の絵は、その澄んだ精神があらわれたような、とてもすばらしい絵よ。あの絵を観たときの感動を今も忘れられない。でも、今はもうあちこち行く気力もなくなって、展覧会に行くこともなくなった。そればかりでなく、何もすることはないの。ただ家にいて、猫のミーと一緒にいるだけ。驚くかもしれないけど、私はもう十分に生きたの。八十五歳だもの。そして、背負うものもない。食事をして、家の中を掃除して、猫に餌をあげて、買い物に出て、マリコさんと一緒に昼食を食べる。聖書を読みながら、ミーと一緒に眠る。ときどき病院に行って、先生に診てもらい、薬をもらって帰る。毎日、変わらない生活。もう、ずっと前から死ぬときを待っている。一つだけ、良いことをしている。天国に行ったときに、神様に褒められたいから」
「どんなことですか?」
「それはね。週に一回、町の人と一緒に、近くの公園を掃除するの。そうそう、その時にミーを拾ったの。あれは春のある日の午後、掃除を終えて帰ろうとしたら、どこからもなく、何とも言えない悲しそうな鳴き声がしたの。あたりを見回しても、どこにもそれらしき影はない。気のせいかと思ったら、またどこからもなく鳴き声がした。よく見ると、叢の中に、ちっちゃな、まるで今、産まれたばかりのような子猫が鳴いていた。あまりにかわいいので、連れて帰って育てた。それが今のミーなの」
「どこに住んでいらっしゃいますか?」
「すぐそこよ。すぐそこと言っても、目の前のビルを越え、大きな川を渡り、その先にある古い家やアパートがたくさんあるところ。のぞみ町一丁目よ。望みと言うわりには、希望も望みもない年寄しか住んでいないけどね」とハナコは笑った。
「のぞみ町なら、知っています」
パン屋の話になった。
「あのパン屋の主人、ひげを伸ばしていて不潔に見えます。変にニヤニヤしている。何か下心がありそう。お客さんに失礼ですよね?」とマリコは言った。
「あら、そう、変かしら? 確かにクマみたいに顔じゅうが毛だらけだわ。それにゴッツイ顔をしている。でも、人は見かけによらないのよ。実をいうと、あのパン屋は私の教え子なの。不幸を背負って生きている。せっかく建てた家が火災に遭い、燃える家の中にいた奥さんを助けようとして、消防士が止めるのもきかず、火の海の中に飛び込んだ。でも助けられなかった。火災で家も奥さんも何もかも燃えてしまった。そして、大きなやけどを負った。やけどの跡を見られまいとして、今は夏でも長袖のシャツを着ているの。もう二十年も前の話よ。妻と一緒に暮らしたという記録は戸籍と大きなやけどの跡だけ。あとは何もかも燃えて消えてしまった。一枚の写真もない。会社を辞めて、奥さんがパンを好きだったのを思い出して、パン屋で働いた。十年修行して、その後、私のところに相談に来た。店を出したいけど、お金がない。銀行からお金を借りようとしたら、保証人がいると言われたから、保証人になってくれないか、と頼んできた。ちょうどいい空き家があるから、そこでパン屋を始めなさい、と言った。それが今のところよ。明るく振る舞っているけど、地獄のような苦しみから這い出てきた。いつか、家も、土地も、彼にあげようと思う。パン屋をずっと続けてほしいから。私に、とても良くしてくれるの。血のつながりがないのに」とハナコは笑った。
その夜、マリコはハナコやパン屋のことを想像した。なぜか止めどもなく涙が流れてきた。みんな、それぞれの悲しみを背負って生きている。それを口にしたりせずに生きている。逆に生きるということは、そういう悲しみを背負うことかもしれないとも思った。
梅雨に入った。雨が降り続いた。来る日も、来る日も、灰色の空の下で雨。そんな雨の日でも、マリコは毎日パン屋と部屋を往復する。ときどきスーパーにも行く。だが、実に単調な生活である。晴れた日なら、窓を開け、遠くを眺め、ときにはスケッチブックに風景を描いたが、雨では窓を開けられない。外の風景も見えないからスケッチもできない。単調な日々がさらに単調になった。部屋に閉じこもり、窓をしめ、じっとしている。テレビを見てもつまらない。音楽は聞き飽きた。何も始まらない。どうにもやりきれない思いが募り、今にも爆発しそうだった。何かをしたい。だが、何ができるというのか? できることをあれこれ考えたら、結局、何もできないことが分かった。そのうえ脚も悪い。考えれば考えるほど、深い穴に落ちていることを再認識させられるだけであった。
ようやく梅雨が明け、夏が来た。
久々に晴れたので、マリコが公園を歩いていた。誰かが軽く背中を叩いた。振り向くと、ハナコである。十五日ぶりの再会である。
マリコが「どうしていましたか?」と聞いたら、
「雨の間、ずっと風邪を患って出られなかった。雨の音って、不思議よね。ずっと聞いていたら、音楽のように聞こえてきた。明治の詩人で、雨の音を聞きながら、穏やかに死ぬことを思いながら詩を書いた詩人がいた。同じように穏やかに死ぬことを想像しながら、雨の音を聞いていたわ」と笑いながら答えた。
「ところで、マリコさん、いつから、背をかがめて歩いているの? 幼い頃から? 違うでしょ、知らず知らずのうちに背中を丸めて歩いているのよ。きっと自信を無くしたのね。足が悪いことを恥じているのね。でも、誰もそんなことを気にしないわよ。もっと胸を張って歩きなさいよ。胸を張って。ときどき空を見てごらんなさい。青い空を。鳥が飛び、白い雲が流れている。人間の悩みなんかとても小さいと思えるわよ」
マリコははっとする。確かにそうだ、なるべく人目を避けるようにして歩いてきた。
「この前、ハナコさんの話を聞いて、あれこれ考えたら気づきました。悲しみを背負って生きているのは、自分だけじゃない、パン屋の主人も、ハナコさんも背負っているって」
「誰もが悲しみや重荷を背負って生きているのよ。でもね、それが生きている証なの。何も無くなったら、きっと浮いてしまうわよ。悲しみや重荷があるから、地上でとどまって生きていられるのよ。無かったら、ちょうどタンポポの種のように宙に浮いて、あてもなくさまよう」
「本当に誰にも重荷があると思う? うちのお父さんにも?」
「あるわよ。たくさん。きっと一番の重荷はあなたのことよ」
「出ていけ、と言ったのよ」