腐ったりんご
「ありますよ。あんまりきれいじゃないけど、近くに一軒だけあります。おいしいという評判です。このアパートを背にして右にまっすぐ歩くと、大通りに突き当たります。大通りを挟んで、向かい側にあります。大きな病院のすぐそばです」
部屋を決めた翌日の朝、マリコは引越しをした。引っ越し先のアパートは、実家から車で三十分くらいのところある。その気になれば、いつでも実家に戻れるので、引越しの荷物は必要最低限のものにした。片付けは三時間ほどで終わった。
夕方、不動産が教えてくれたパン屋を行った。店の作りは古く、進んで入りたい気持ちにはなかなかなれなかったが、近くには、そのパン屋しかないので、入ってみることにした。並べられているパンからとても香ばしい匂いがしている。その匂いでパンは悪くないとすぐに分かった。幾つかのパンを買って部屋に戻った。
窓を開け、外をぼんやり眺めながら、パンを食べた。既に西の方の空は茜色に染まろうとしているが、真上の空はまだ青い。鳥が悠々と飛びまわり、何羽かは近くの木立の多いところに舞い降りた。
パンを食べた後、鳥が舞い降りた木立のところに行ってみた。そこは川辺近くの公園だった。思ったよりも広く、何よりもたくさんの憩う人がいることに驚いた。その中には、食事を楽しんでいる人たちもいる。マリコは、明日からここで昼食を取ろうと決めた。
引っ越しをして数日が経った月曜日の昼である。いつのように、公園のベンチでマリコが昼食を取っていると、白髪の老婆が近づいて来た。笑みを浮かべ品の良さそうである。
「隣に座っていいかしら? 一人だと寂しいから」とにこりとした。
「どうぞ、空いていますから」
「私はナガシマ・ハナコというのよ」と言うと、ゆっくりと座り、持ってきた鞄の中からパンを取り出した。
「ところで、あなたの名前は何というの?」
「アキヤマ・マリコです。マリコと呼んでください」
「マリコさん、良い名前ね。私はもう八十五よ。あなたは幾つ?」と笑った。
「二十一です」
「そうなの。まだ若いわね」
食事をしながら、二人はいろいろと話をした。
火曜日、水曜日も同じように一緒に食事をした。そして、木曜日のことである。食事を終えたとき、突然、マリコはハナコに事故で自分の脚のことを告白したい衝動に駆られた。誰でもいいから、胸のうちにたまったものを聞いてほしかったのである。
「お父さんの好物はりんごです。でも、ほんの少しでも痛んだり、あるいは虫が食ったりしていると捨てます。不完全なものが嫌いなのです。あまり口にしないけど、貧しい人間や障害がある弱い人間も好きではありません。事故に遭って左脚が悪くなりました。うまく言えないけど、父は悲しんでいるような、憐れんでいるような、嫌なものをみるような、不思議な目で見ます。以前はそんな目で見なかった」
「気のせいよ。事故に遭ったあなたとどう向き合えば良いのか、まだ分からないのよ。でも、心配することはないわよ。二十一年も仲良くやってきたんだから、これからも仲良くやれるはずよ。今、ほんのちょっと迷っているだけよ」
マリコは首を振った。
「父が嫌いな不完全で弱い人間になってしまったんです。腐ったりんごになってしまったんです」
「この世で完全なものは何一つないのよ。あるとしたらロボットだけよ。人間はみな不完全なのよ。ただ不完全の度合いが違うだけ」
「婚約が破棄されて、父は変わり、家に居づらくなりました。とうとう父と喧嘩しました。大切な壺を壊して、家を出ました。事故に遭うまでは、父のことが大好きだったのに、なぜこんなふうになってしまったのか、自分でもよく分からない」
「長い人生でいろんなことがあるものよ。お父さんにも、あなたにも。ただ、お互いにうまく気持ちを伝えられないのね。お父さんも気づいたはずよ、誰もが弱い人間になる可能性があることを。大切な娘が交通事故に遭い、脚が不自由になったんですもの。気づかないはずはない」
マリコはまた首を振った。
「事故に遭うまでは、私も浮浪者や障害者は好きではありませんでした。自分が事故に遭って、その好きではない人間になり、婚約も破棄され、絶望しました。情けないやら、馬鹿みたいやら、毎日泣きました。たった独りぼっちで、深い穴に落ちたのです。もう泣くことはないけど、その穴から抜け出せないでいます。誰もが弱い人間になるかもしれないということが分かっているけど、なりたくはなかった」
マリコと泣き出しそうな顔をした。
「自分を卑下しちゃだめよ」とハナコは慰めた。
「分かっています。でも、どんなに焦っても、抜け出せないんです」と言うと、悲しみをこらえることができず、マリコはとうとう泣き出してしまった。
ハナコは「かわいそうな子ね。でも、必ず神様が救ってくれる」とマリコをそっと抱きしめた。
「神様なんか、どこにもいません」とマリコは泣きながら言った。
「いいえ、いるわよ。そして、あなたを見ている。だから生きられるのよ。いつかあなたも気づくはずよ。生きているというのは、生かされているということだと。だから感謝しなければいけない。私は寝るとき、神様にありがとうと言って寝ることにしている。ときどき忘れてしまうこともあるけど」とハナコは舌を出した。
金曜日のお昼も、ハナコはマリコの隣に座った。食事を終えると、ハナコはお茶を飲みながら、「今日は少し風があるけど、気持ちいいわね。今度は私の話をしていいかしら?」
「ぜひ、聞かせてください」
「これでも小学校の先生をしていたの。でも、三十年前に辞めたの。遠い昔……。何もかも夢のよう。娘が一人いたの。病気で夫を亡くした後、とても厳しくしつけた。きっと父親がいなくとも立派に娘を育てられるという気負いもあったと思う。本当に厳しくしてしまった。それが、娘には愛情がないと思えたみたい。あるとき、些細なことで、言い争いになって、あんたがいるから幸せになれない、と言ってしまったの。それからね。娘がまともに口を利かなくなったのは。高校を出ると、すぐに家を出た。それから、何十年もまともな会話していないの。今は簡単な会話だけ。馬鹿みたいでしょ。あの時、どうして素直に、ごめんなさい、と言えなかったのか。今でも、ときどき娘の夢を見るの。そして、自分がどんなに娘を愛していたのかを気づかされる。笑えるでしょ。でも、いいの。今、娘は幸せに生活をしているから。その娘にも子供ができて、その子も、もう中学生になったと聞いているわ。今は親子という細い線でつながっているだけ。二人の間に溝があって、互いに越えられない。ほんのちょっと勇気があれば越えられるのかもしれない。でも、ずっと前からこのままで良いと思っている。穏やかに生きているから。ところで、あなたは絵を描くのね?」
マリコの膝のうえにスケッチブックが置いてあったのである。
「下手な横好きです」とマリコは笑った。
「下手でも何でもいいの。やりたいことがあるのは良いことよ」