腐ったりんご
その夜、マリコは昼間のことを思い出しながら考えた。もし、破談にならずに結婚して、ユウスケがそばにいてくれたなら、脚のことなど気にせずに生きていけると思った。だが、破談になったことで、叶わない夢となった。そのうえ、もう二度と手の届かないところにいる。どうして、もっと早く結婚しなかったのか。そもそも、どうしてあの道を通ってしまったのか。なぜ事故に遭ってしまったのか。あれこれと思い出す度に、悔しくて、悲しくて、涙が流れ、眠れない夜となってしまった。
破談となった頃から、ケンタロウがマリコと少し距離を置くようになった。少なくともマリコにはそう見えたのである。婚約が破棄されたことで、顔に泥を塗られたような思いになったのであろう。破談の原因となったマリコの脚、いやマリコさえも、見たくないかのように視線をそっとそらす。その度にマリコの心は痛み、ますます部屋に閉じこもるようになった。
退院してから、マリコは一度も学校に行っていない。友達からの電話があってもめったに出ない。何よりも自分の部屋から出ようともしない。自らの行動が招いた結果であるが、本当に独りぼっちになった。深くて暗い穴に落ちているのに、誰も助けに来てくれない。左脚が悪くてうまく動けないのに。
交通事故から十か月が過ぎた。人は助かってよかったと言うが、マリコはとてもそんな気持ちになれなかった。前のようにきれいに歩けないからだ。歩く姿を鏡に映してみた。滑稽で、まるで壊れた人形のようである。おかしくなるくらいに悲しい。どんなに考えても分からなかった。神はかくも過酷な罰を自分に与えたのか。何も悪い事をしなかったのに、まるで罰するように障害を背負わせた。なぜ自分だけがそんな不幸を背負わなければいけないのか。
ある時から、マリコは妄想にとりつかれた。自分の歩く姿を見て、陰であざ笑っている者がいると。そのせいで、ますます部屋から出られなくなった。その一方で、ずっと引きこもったような生活ではいけないとも思った。だが、大学に戻る気はしなかったし、働く気もしなかった。ましては、外に出て、ぶらぶらと歩く気もしなかった。どうすることもできないもどかしさを覚えながら、時間だけが虚しく過ぎていった。あまりの退屈さに耐えられなくなったとき、たまに部屋の中にある物をスケッチブックに描いてみるものの、すぐに飽きた。
マリコは部屋に閉じこもっていたが、それでも食事や用を足したりするときなどは部屋を出る。そんな時、たまたまケンタロウと顔をあわせることがある。必ずと言っていいほど、ケンタロウはマリコに、「いつまで部屋に閉じこもっている」と文句を言うが、マリコはぶすっとして何も応えない。とうとう、ある日のこと、顔を合わせるなり、ケンタロウが、「いつまで事故のせいにして怠けているつもりだ。大学に行く気がないなら、さっさと辞めて働け!」と怒鳴った。しばらく押し黙っていたマリコは、「分かりました。大学を辞めます」と応えた。次の日、本当に退学届けを出した。だが、相変わらず部屋に閉じこもったままでいた。
退学届けを出した数日後のこと、居間でケンタロウと鉢合わせになってしまった。些細なことで文句を言われたマリコは、ふて腐れて、「私はどうせ腐ったりんごですから」と言った。
「何を馬鹿げたことを言っている。事故で頭がおかしくなったか。それなら、一生、病院にでも入っていろ。この家から出ていけ。目障りだ」とケンタロウが怒り狂った。あまりにも、凄まじい怒りだったので、マリコは、まるで幼子のように声をあげて泣き、「私だって、出たい。でも、出られない。お父さんに分からないでしょうけど。とても悲しくて辛い。脚が悪くなった人間の悲しみなんか、お父さんに分かるはずはない。でも家を出ます。お父さんの顔なんか見たくないから。出たら、もう二度と敷居もまたぎません」
「たかが脚が悪くなっただけで、自分の弱さや無能さを正当化する。そんな弱い人間は大嫌いだ。そんな人間の気持ちを分かりたいとも思わない」とあきれ、そして蔑むような顔をしていた。
マリコの中で急に怒りが起こった。父の蔑むような顔を見ているうちに、怒りがますます大きくなった。どうしょうもないほど膨れ上がったとき、父が大切にしていた白磁の壺を手にしていた。その壺は大切な家宝の一つである。
「どうする気だ?」とケンタロウが問う。
たまたまヤヨイが居間に入ってきた。壺を手にするマリコに向かって、「マリコ、馬鹿な真似はよしなさい」と止めようとするが、マリコは振り切り床に叩きつけた。修復が不可能なくらいに粉々になった。マリコは笑った。腹の底から笑った。
「何を笑っている。大馬鹿者、大切な家宝を壊して。いいか、一週間だけ猶予を与える。その間に荷物をまとめて出ろ。二度と家に入れるな」と怒鳴った。
マリコは自分の部屋に戻り、すぐに引っ越しする準備にとりかかった。後からヤヨイが入って来た。
「あなたはやっぱりお父さんの子ね。うちに激しい気性を秘めている。いざとなると、とんでもないことをやる。お父さんも同じなのよ。子供の頃、おじい様に叱られて、悔しくておじい様の大切なものを壊したことがあると聞いたことがある。血は争えないのね。ところで壺を壊して気持ちは少し晴れた?」
「少しだけ」
「それは良かったわね。高い壺らしいから。何でも五百万くらいすると言っていた。当分、お父さんは悪夢にうなされるかもしれない。それでも良いの。壺なんか壊れても良いの。あなたの心が壊れないで済むなら。でも、物に当るのは、これっきりにして。一時は気が晴れるかもしれないけど、何も解決しない。お母さんが駅前の不動産に電話しておく。明日でも、そこへ行って部屋を見つけなさい」
母親に言われた不動産を訪ねた。出てきたのは、タヌキのような胡散臭い顔をしたおやじである。
「お母さんから聞いています。幾つか案内しますよ」
不動産のタヌキおやじが案内したのは、いずれも高いところばかりだった。
「自分で働いたお金を払いたいから、もっと安いところを見せてください」
不動産は仕方なしに、安っぽいアパートの二階の部屋を見せた。すると、マリコは、「ここで良い」と微笑んだ。その部屋はキッチンと浴室がついているだけのワンルームである。
「アキヤマ家のお嬢様にふさわしくない部屋ですよ。金のない学生やアルバイトで食いつないでいる若い娘が住人です」と失意をあらわにしたタヌキ親父が言う。
「脚が悪いのよ。広い部屋を借りたら、掃除するのが大変でしょ。狭い部屋でいいの。古いけど、リホームしてあるから悪くはない。この部屋の窓から街並みが見えるのも、気に入ったわ」
「でも二階ですよ。エレベーターはないですよ、二階まで上るのは大変じゃありませんか?」
タヌキおやじはなおも別のところを勧めようと試みる。
「いいのよ、脚は鍛えないとどんどん衰えていくから。ところで、この近くにパン屋はあるかしら?」
マリコはパンが大好きで、朝食と昼食は、ご飯ではなくパンである。