腐ったりんご
『腐ったりんご』
「腐ったりんごは捨てなさい」
それが市会議員であるアキヤマ・ケンタロウの考えだった。良いものだけを選ぶ。腐ったりしてだめになったものは捨てる。娘のマリコも父から、そう教わってきたので、それが当たり前だと思った。少なくとも、交通事故で左脚が不自由になるまでは。
本題に入る前に、アキヤマ家と当主であるケンタロウについて簡単に述べよう。アキヤマ家はN市きっての名家である。かつて、貿易商として財をなし巨富を築いた。ケンタロウはそのアキヤマ家の七代目である。大学卒業後、東京の会社に入り、九年が経ったときのことである。ケンタロウの父が市議会議員を引退したが、後釜として立候補し当選した。三十一歳のときである。平均的な日本人といってもいいケンタロウは、保守派的なものの考えを大切にした。福祉というものに対しては批判的であった。また、家庭においては、どんな些細なことでも彼が決めた。妻のヤヨイとの間に三女をもうけ、マリコはその三番目である。
夏のうだるような暑い日が続いた夜のことである。たまたま、ひとけの少ない細い道を歩いていたマリコが後ろから来た車に轢かれた。車を運転していたのは、昼間から酔っ払い運転していた十八歳の少年だった。生死をさまよったものの、奇跡的に助かった。さらに良かったのは、脚に少し障害が残っただけですんだことである。だが、マリコはまだ二十だった。美しい顔立ちとモデルのような美しいプロポーションをしていて、秋には、結婚する予定であった。まさに幸福の絶頂にいたのである。それが交通事故に遭い障害を負ったことで、それまで築いた幸せが音をたてて崩れていったのである。
交通事故に遭ってから一か月後のことである。
「脚は治らないの?」とマリコが白髪交じりの担当医に聞いた。
担当医は障害を丁寧に説明した後、「残念ながら、もとに戻るのはとても難しいです」と答えた。
マリコは泣いた。
担当医が去った後で、看護婦が優しく言った。
「でも、良かったと思ってください。命は助かったんです。体に傷の跡も残らない。奇跡的です。先生のおかげです」
マリコには良かったと思えなかった。左脚がうまく動かない、それが全て灰色に塗りつぶしている。目に見える世界も、目に見えない世界も、そして心の中も。
「お母さん、腐ったりんごは捨てないといけないの?」
病室で横たわるマリコが呟くように言った。
「突然、何を言い出すの。悪い夢でもみたの?」
マリコの母ヤヨイは果物の皮をむいていた手を休め心配そうに聞き返した。
「違うの。昔、マリコが小学校三年生のとき、選挙期間中に、立候補したお父さんが後援会の人からたくさんのりんごをもらった。しばらく眺めた後、幾つかを捨てた。どうして捨てたの? と聞いたら、腐っているから捨てた、と言った。ごみ箱に入ったりんごを見たら、捨てるほどではなかった。確かに少し痛んでいたけど」
「それはあなたに悪いものを食べさせないためよ」
「事故に遭う前だけど、お父さんと一緒に買い物に行ったでしょ。たまたま、ホームレスとすれ違ったの。そのとき、すごい匂いがした。通り過ぎた後でお父さんが言ったの。あいつらは怠け者で弱者のふりをして人の善意を受けようとしているクズだと。その時、お父さんの言うとおりだと思った。でも、事故に遭って、分かったの。もし、左脚が治らなかったら、きっと一人では生きていけなくなるから、人の善意にすがって生きるしかない。お父さんが言う、腐ったりんごになるのよ」とマリコは泣いた。
「腐ったりんご? 本当にそんなことを思っているの? あなたも、お父さんも間違っているわよ。脚が悪くとも立派に生きている人はたくさんいるのよ」
平凡な家庭に生まれ育ったヤヨイはもともと控え目な女だったが、さらに名家の当主であるケンタロウに嫁いでからは、いっそう控え目に生きてきた。子供たちに対しても、ケンタロウがあれこれ決めてしまうので、ヤヨイから何かを言われたことはめったになかった。それがケンタロウの考えを否定するかのように「間違っている」とはっきりと言うので、マリコは驚いた。
「もういい、部屋から出ていって。眠りたいから」とマリコは布団をかぶった。
三か月後にマリコは退院できた。退院したことをどこから聞いたのか分からないが、その数日後に婚約者タザキ・ユウスケの母親カスミが訪ねてきた。タザキ家は、アキヤマ家に劣らぬ名家である。カスミもマリコの父ケンタロウと同類の人間で何よりも世間体や体裁を重んじる。
マリコは父と一緒に話を聞くことにした。
儀礼的な挨拶を交わした後、しばらく他愛もない雑談を交わした後、カスミは意を決したように、「申しにくい話をさせてください」と軽く一礼し、心もちマリコの方を向いた。
「退院できて、本当におめでとう。言いにくいことだけど、単刀直入に言わせてください。気分を害したら、ごめんなさい。マリコさん、ユウスケとの結婚を白紙に戻しましょう。言いにくいことだけど、脚が悪い人にタザキ家の嫁はつとまりません。脚はすぐに治らないのでしょう? 今は治療に専念した方がいいわ。何年かかるのか分からないけど。余計なことかもしれないけど、治ってから、いい人を見つけた方がいい。残念だけど、マリコさん、あなたが治るまで、ユウスケは待てない。ユウスケは待ってもいいと言ったけど、私はよしなさいと言った。だって、いつ治るのか、分からないものを待つなんて、とても無理よ。どんなに愛があっても冷めてしまう。それが人間というものよ」
マリコが予想したとおりだった。しかし、わずかな望みの糸を切られたようで落胆せずにはいられなかった。そっと父を見た。腸が煮え返る思いを、誇り高き父が必至に抑えているのがよく分かった。
誰も何も言わず重苦しい沈黙が支配した。マリコはユウスケのことを考えていた。彼は思いやりのある優しい男だったが、残念ながら、母親に対しては、大人になっても口答え一つもできない、ある意味、子供のまま大人になったような男である。それゆえ、母親がマリコとの婚約破棄を決めても、反論しなかった。だが、マリコはユウスケの未熟さを優しさと勘違いしていた。優しいから、きっと母親に抵抗できなかったろうと解釈した。裏切られたような気持ちがあったものの、心のどこかで、まだ彼を求めていた。
しばらくして、ケンタロウは一言、「分かりました」と応えた。
カスミが帰る時、いつもなら玄関先まで見送るケンタロウが、その時に限って見送らなかった。見送りから戻ったマリコに向かって、独り言のように「どうして、あの女は言いにくいことをズバズバ言えるんだろ? 人間の血が通っていない冷たい女だ。こっちの方から絶交だ」とケンタロウは呟いた。
「腐ったりんごは捨てなさい」
それが市会議員であるアキヤマ・ケンタロウの考えだった。良いものだけを選ぶ。腐ったりしてだめになったものは捨てる。娘のマリコも父から、そう教わってきたので、それが当たり前だと思った。少なくとも、交通事故で左脚が不自由になるまでは。
本題に入る前に、アキヤマ家と当主であるケンタロウについて簡単に述べよう。アキヤマ家はN市きっての名家である。かつて、貿易商として財をなし巨富を築いた。ケンタロウはそのアキヤマ家の七代目である。大学卒業後、東京の会社に入り、九年が経ったときのことである。ケンタロウの父が市議会議員を引退したが、後釜として立候補し当選した。三十一歳のときである。平均的な日本人といってもいいケンタロウは、保守派的なものの考えを大切にした。福祉というものに対しては批判的であった。また、家庭においては、どんな些細なことでも彼が決めた。妻のヤヨイとの間に三女をもうけ、マリコはその三番目である。
夏のうだるような暑い日が続いた夜のことである。たまたま、ひとけの少ない細い道を歩いていたマリコが後ろから来た車に轢かれた。車を運転していたのは、昼間から酔っ払い運転していた十八歳の少年だった。生死をさまよったものの、奇跡的に助かった。さらに良かったのは、脚に少し障害が残っただけですんだことである。だが、マリコはまだ二十だった。美しい顔立ちとモデルのような美しいプロポーションをしていて、秋には、結婚する予定であった。まさに幸福の絶頂にいたのである。それが交通事故に遭い障害を負ったことで、それまで築いた幸せが音をたてて崩れていったのである。
交通事故に遭ってから一か月後のことである。
「脚は治らないの?」とマリコが白髪交じりの担当医に聞いた。
担当医は障害を丁寧に説明した後、「残念ながら、もとに戻るのはとても難しいです」と答えた。
マリコは泣いた。
担当医が去った後で、看護婦が優しく言った。
「でも、良かったと思ってください。命は助かったんです。体に傷の跡も残らない。奇跡的です。先生のおかげです」
マリコには良かったと思えなかった。左脚がうまく動かない、それが全て灰色に塗りつぶしている。目に見える世界も、目に見えない世界も、そして心の中も。
「お母さん、腐ったりんごは捨てないといけないの?」
病室で横たわるマリコが呟くように言った。
「突然、何を言い出すの。悪い夢でもみたの?」
マリコの母ヤヨイは果物の皮をむいていた手を休め心配そうに聞き返した。
「違うの。昔、マリコが小学校三年生のとき、選挙期間中に、立候補したお父さんが後援会の人からたくさんのりんごをもらった。しばらく眺めた後、幾つかを捨てた。どうして捨てたの? と聞いたら、腐っているから捨てた、と言った。ごみ箱に入ったりんごを見たら、捨てるほどではなかった。確かに少し痛んでいたけど」
「それはあなたに悪いものを食べさせないためよ」
「事故に遭う前だけど、お父さんと一緒に買い物に行ったでしょ。たまたま、ホームレスとすれ違ったの。そのとき、すごい匂いがした。通り過ぎた後でお父さんが言ったの。あいつらは怠け者で弱者のふりをして人の善意を受けようとしているクズだと。その時、お父さんの言うとおりだと思った。でも、事故に遭って、分かったの。もし、左脚が治らなかったら、きっと一人では生きていけなくなるから、人の善意にすがって生きるしかない。お父さんが言う、腐ったりんごになるのよ」とマリコは泣いた。
「腐ったりんご? 本当にそんなことを思っているの? あなたも、お父さんも間違っているわよ。脚が悪くとも立派に生きている人はたくさんいるのよ」
平凡な家庭に生まれ育ったヤヨイはもともと控え目な女だったが、さらに名家の当主であるケンタロウに嫁いでからは、いっそう控え目に生きてきた。子供たちに対しても、ケンタロウがあれこれ決めてしまうので、ヤヨイから何かを言われたことはめったになかった。それがケンタロウの考えを否定するかのように「間違っている」とはっきりと言うので、マリコは驚いた。
「もういい、部屋から出ていって。眠りたいから」とマリコは布団をかぶった。
三か月後にマリコは退院できた。退院したことをどこから聞いたのか分からないが、その数日後に婚約者タザキ・ユウスケの母親カスミが訪ねてきた。タザキ家は、アキヤマ家に劣らぬ名家である。カスミもマリコの父ケンタロウと同類の人間で何よりも世間体や体裁を重んじる。
マリコは父と一緒に話を聞くことにした。
儀礼的な挨拶を交わした後、しばらく他愛もない雑談を交わした後、カスミは意を決したように、「申しにくい話をさせてください」と軽く一礼し、心もちマリコの方を向いた。
「退院できて、本当におめでとう。言いにくいことだけど、単刀直入に言わせてください。気分を害したら、ごめんなさい。マリコさん、ユウスケとの結婚を白紙に戻しましょう。言いにくいことだけど、脚が悪い人にタザキ家の嫁はつとまりません。脚はすぐに治らないのでしょう? 今は治療に専念した方がいいわ。何年かかるのか分からないけど。余計なことかもしれないけど、治ってから、いい人を見つけた方がいい。残念だけど、マリコさん、あなたが治るまで、ユウスケは待てない。ユウスケは待ってもいいと言ったけど、私はよしなさいと言った。だって、いつ治るのか、分からないものを待つなんて、とても無理よ。どんなに愛があっても冷めてしまう。それが人間というものよ」
マリコが予想したとおりだった。しかし、わずかな望みの糸を切られたようで落胆せずにはいられなかった。そっと父を見た。腸が煮え返る思いを、誇り高き父が必至に抑えているのがよく分かった。
誰も何も言わず重苦しい沈黙が支配した。マリコはユウスケのことを考えていた。彼は思いやりのある優しい男だったが、残念ながら、母親に対しては、大人になっても口答え一つもできない、ある意味、子供のまま大人になったような男である。それゆえ、母親がマリコとの婚約破棄を決めても、反論しなかった。だが、マリコはユウスケの未熟さを優しさと勘違いしていた。優しいから、きっと母親に抵抗できなかったろうと解釈した。裏切られたような気持ちがあったものの、心のどこかで、まだ彼を求めていた。
しばらくして、ケンタロウは一言、「分かりました」と応えた。
カスミが帰る時、いつもなら玄関先まで見送るケンタロウが、その時に限って見送らなかった。見送りから戻ったマリコに向かって、独り言のように「どうして、あの女は言いにくいことをズバズバ言えるんだろ? 人間の血が通っていない冷たい女だ。こっちの方から絶交だ」とケンタロウは呟いた。