お蔵出し短編集
最後の魔女
1・ある会話
少年はまたそこを訪れることにした。
切り立った山の向こうに、その『ほこら』はある。
そこは『禁忌の地』だ。
彼の所属する『集団』には、そこに行くことは決して許されてはいなかった。
少年は身軽に、少しの危なっかしさもなく岩と岩の間を飛び越え、その間に汗もほとんどかかないままだった。
やがて辿り着いた岩山の切れ目に身を滑り込ませる。
陽射しが届かなくなると、そこは完全な暗闇に包まれる。
夜目の利く彼の眼をもってですら、手探りの岩肌の感触と、一歩一歩を確かめる慎重な足取りがなければ先に進むことは難しい。
やがて、彼の手が冷たい『感触』を捉える。
『岩肌』を越えたのだ。
そしてついに今日も彼はそこへやってきた。
目的はただひとつであり、他でもない。
『おとぎ話』を聞くため、つまりは、ただそれだけだった。
「魔女さん!」
彼が声を上げた。
暗闇の中に彼の声が、不気味に響き、こだまする。
「おれ、今日も来たよ!何かお話を聞かせておくれよ!」
彼の声が暗闇に反射し、融けて、消える。
沈黙の中で、彼の息遣いだけが辺りに薄く響く。
「おやおや」
そんな声が細く低く響く。
ふらりと暗闇の中に、赤い灯が灯る。
少年はそれを『魔女の眼』と呼んでいた。
暗闇に光るそれを初めて見た時、彼にはそれがおとぎ話に聞く魔女が持つ血走った邪悪な眼にしか思えなかったからだ。
「困った子だねぇ。ここには来てはいけないと言われているんじゃなかったのかい?」
魔女の掠れるような声は、それでもどこか楽しげに響いた。
「気にしやしないよ」
それは嘘だった。
彼がここに来ていることが仲間に知られれば、彼は長老連中から集団を追い出される危険があったからだ。
しかしそれ以上に、彼は魔女の語る話に魅了されていた。
彼が若い故に、リスクとそこからもたらされる益との間に正しい均衡を描けていないだけとも言えたが、彼自身にはそれは分かってはいなかった。
ここでそれを分かっている者がいるとすればそれは魔女のみだったが、魔女はそれを実はかつて彼に語っていた。
しかしそれでも彼は魔女の元へやって来た。
諭すことに失敗したのか、彼が理解しなかったのか、あるいはその両方か。
若しくは単に魔女の語る『話』が、彼の持つ全てと比較して凌駕するほど魅力的であったのか。
「仕方のない子だ」
魔女はまたどこか楽しげな声音でそう言う。
へへ、と彼が笑って、右手の人差し指で鼻の下を一度擦り上げた。
「そう言えば、今日は何日だい?」
魔女はそう彼に問うた。
「馬鹿にするない!おれでも分かる。10月31日だよ」
彼はそう答えた。
「それじゃ、今日は『ハロウィン』だ」
ふと気付いたような声で魔女はそう呟いた。
「ハロウィン?」
「そう、11月1日の前日で、死んだ人の霊が帰ってくるのさ。この日はね」
「うへえ!」
彼は顔をしかめてそう言った。
「おや、お前は死んだ人に会いたくないのかい?」
魔女は彼にまたそう問うた。
「会いたくないよ」
彼はぶんぶんと頭を横に振ってそう答えた。
「なんでだい?今はいなくても、もう一度会いたい人なんかはいないのかい?」
「じいちゃんが言ってた。死んだ人は帰らないって。それって『オキテ』なんだ。『オキテ』を破ることは、しちゃいけないんだ」
彼が真面目な声でそう言うと、魔女はおかしそうにふふふと笑った。
「何がおかしいのさ?」
彼が口をとがらせて魔女にそう尋ねる。
「だってさ、『オキテを破っちゃいけない』って言うお前は、それなら何でここにいるんだい?」
魔女にそう言われて彼は、何かを言い返そうと口を開いてぱくぱくとしたが、結局言葉を結べずにまたその口を閉じた。
「実際、お前は素直な子だよ。あたしはそう思うね。でも、ハロウィンを恐れることはないんだよ」
魔女は彼を諭すようにそう続けた。
「なんでさ?」
それにまた彼が問い返す。
「それはお前の名前に意味があるのさ」
魔女の言葉に彼が首を捻る。
「『ジャック』。お前は『ジャック』だろう?ジャック・オー・ランタン。カボチャのジャック。まあ、この際呼び方はなんだって良いさね。ハロウィンにはもう一つ伝説があってね。ハロウィンの日にはカボチャやカブの提灯を飾るんだ。そいつのことを、『ジャック』って言うんだよ。中にろうそくを点してね。そしてこの提灯が大事だ。飾られたこの提灯には、善霊を呼び寄せ、悪霊を遠ざける力があるとされているんだよ」
「へえ!」
彼が、小さなジャックが暗闇の中で眼を輝かせる。
ジャックにはその時、赤い魔女の眼がゆらりと揺らめいた気がした。
魔女が笑った?
それは彼の気のせいかも知れなかった。
しかしジャックには、その赤い灯の揺らめきが、確かにそのとき笑った魔女の眼に見えた。
「お前の先祖様が、お前の好きな人が、今はこの世界にいない全ての善霊が、きっとお前を守ってくれるさね。だから恐れちゃいけない。お前はそうした人たちの歩んだ時間の一番先に立っているんだ。むしろ、感謝しなくちゃね。お前に引き寄せられ、今夜だけはお前の側で、見えないながらにパーティを開くのかも知れないよ?」
魔女がそしてそう続けた。
すると、
彼が楽しそうに笑い声を上げた。
「やっぱり魔女さんのお話は面白いや!」
そして、くるりと身を翻した。
「今日もありがとう、魔女さん。『ハロウィン』。そうか。『ハロウィン』か!そしておれは『ジャック』なんだ!」
たったこれだけの短い話にジャックは随分満足した様子で、足取りも軽く暗闇の中来た道を引き返し歩き出した。
「もう来るんじゃないよ」
魔女はそう呟いて、彼を見送った。
その声音がどこか寂しそうなのをジャックは聞き逃さなかった。
だからジャックは
「またね、魔女さん」
と言って、暗闇の中に向けて一度手を振った。
そのとき、赤い灯が一度瞬いて、ふわっと闇の中に消えた。
魔女の声も気配もそれきり失われ、『ほこら』は、『禁忌の地』は、また不気味な沈黙と暗闇のみが支配する空間へとその姿を変えてしまった。
彼が岩の裂け目から外に出たころ、徐々に闇色を帯び始めた深い紺色の空には、星がいくつか浮かび始めていた。
夕暮れから夜へ。
世界は今日もその姿を移ろわせる。
彼は身軽にまた岩山の中を跳び足で住処へ戻り始める。
彼にとっては何と言うことのない道程だ。
ふと彼は空を見た。
触れれば切れそうな鋭く細い三日月がそこに浮かび、彼はふと魔女の話を思い出す。
この夜の隙間に、死んだ者の霊が帰ってくる。
悪霊と、善霊と。
そんなことを考えたからか、
跳んだ弾みに彼の足が岩から滑った。
あっと想った時には遅かった。
岩の先には、遥か下に森が見える。
その高さは、およそ人が自由落下して助かるというレベルを大きく凌駕している。
彼は一瞬で絶望した。
この世界にこうして生きる以上、彼の人生観はシビアだ。
生き残ることは能わず。
彼は眼を閉じ、自分のうかつさを束の間呪い、うんざりした様子でぐっと手を握った。
すると、
握った右手の中で、するりと誰かが彼の手を取った。
彼はその手を握りかえした。
瞬間、彼は助かる自分をイメージした。