お蔵出し短編集
8月の終わりで大学がいまだ長い夏期休暇にある中、僕が学生棟の部室でピッグノーズの小さなアンプに繋いだエレキギターを鳴らしていると、ボーカル担当の同級生の女の子がベース担当の先輩と腕を組んで入ってきた。
二人が付き合っているのは知っている。
だから僕はへらっと頭を二人に下げて、コードを押さえながら右手を弦に向けて振り下ろした。
その時、
ふわりと僕の鼻をくすぐったのは、遠い日にかいだ甘い匂いだった。
ピックを持つ僕の手がそれでぴたりと止まった。
「おう」
とその先輩は快活に挨拶をしてきたが、僕はぼんやりと二人を見るだけだった。
女の子は部室に入りながら、手にぶら下げた紙袋を部室の真ん中にあるテーブルの上にどさりと置いた。
「お土産!」
とその子は言った。
見覚えのあるその紙袋からは、立ち上るような香りが溢れ、僕は呆然と記憶の糸を手繰った。
「ここの葡萄が旨いらしいんだ。ドライブがてら買ってきたから、みんなで食べようぜ」
と先輩は気さくに言った。
季節は廻り、
葡萄は同じものではないにしても、
僕にとってのそれは間違いなく―――紛うことなく―――あの日の残り香だった。
遠くなってしまった記憶の彼方から、叔母の姿がよみがえるのを感じ、僕は天井を見上げた。
見上げずにはいられなかった。
だって―――
「―――おい?どうした?」
先輩が怪訝な声で僕に尋ねた。
―――水平よりも下に視線を逸らしたなら、
きっと、僕は―――涙をこぼしてしまう。
どこかで僕を置き忘れてなお続いた世界に、僕はその残り香に導かれ、ついに追いついた。
反射的に僕は部室を駆けだした。
でも行く場所なんてどこにもない。
ただ時間が必要だったのだ。
走る時間と、空っぽである時間と、『それ』を受け入れるためのいましばらくの無駄なばかりの時間が。
だから僕は走った。
力の限り走り続けた。
それはまとわりつく香りを、
身体に受ける風で、
ただ、ひたすらにどこかまで、吹き飛ばすためだけに。
<了>