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お蔵出し短編集

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「僕はね、雲を見下ろしたいんだ」
と彼は言った。
彼は極端な人見知りで、いや、はっきり言えば、心に問題を抱えていた。
私と彼は幼なじみで、家が隣だったこともあって、家族にようにして育った。
いつまでも馴染まない学生服に身を包み、私と彼が観ていたのは図書館で世界の名所を収めた写真集のような本だった。
彼は私と話をするときにはごく普通の受け答えが出来るのに、そのほかの人となるとてんで駄目で、授業についても例えばラジオを聞くかのように先生の話を受けることは出来ても、応えることは出来なかった。
特殊な学級に入るほどではない。
しかし、会話が一方通行である以上、彼は教室内で必然的に孤立した。
私はそんな彼と一緒に居ることに慣れていたこともあり、彼は私を頼ってくることがしばしばあった。
私はと言えば、そんな彼のことは嫌ではなかった。
何しろ家族も同然に捉えていたし、子供の頃からの付き合いで、環境やそんな彼の状態が半ば私の生活や人生に当然のように溶け込んでいたからだ。
彼は他人と滅多に喋ることがない。
だからその声を聞くのは彼の母親を除けば、高校という閉ざされた社会の中で、ほとんど私ただ一人だけだと言えた。
そんな彼と私は、放課後になるとこうして図書館に集まって、一緒に良く本を読んだ。
授業が終わるとどちらからともなくそこへやって来て、その日学校であったことを話し合って、それぞれが好きな本を選んでしばらく読んで、読み終わったら相手を待って、感想を話してから帰るとか、概ねそんなサイクルが私と彼の間には出来上がっていた。
それか時にはこんな風に、一冊の本を並んで眺める。
私たちがそうしていたのは、図書室が持つ静けさが、きっと彼も私も好きだったからに違いなかった。
そしてこのとき、私と彼の目の前にある本の中には、あの有名な『ピサの斜塔』の写真があった。
「雲を?」
と私は尋ね返した。
彼は物静かに頷いてから、改めて
「そう、雲を」
と応えた。
その細く響く声が、私は好きだった。
耳の奥の皮膚をそっとくすぐるような、普段喋らないからか、小さくて少しだけ掠れたようなそんな声音が好きだった。
「子供の頃さ、天国の話って聞くじゃない?雲の上には国があって、そこでは死んだ人たちのなかで、正しい行いをしてきた人達だけが暮らすんだって」
彼はそう続けた。
だから、私は黙って頷いた。
「白い雲なら分かるんだ。白い雲の上に、白い服を着た心の清い人たちが歩いているのはさ。でも、空って白い雲ばかりじゃないよね。雨が降りそうな日には、灰色で汚くって、僕の気持ちを滅入らせる。僕が観たいのはそんな雲の上を歩く人の姿だ。高い高い塔の上からなら、そこを歩く人たちの姿が見えるのかな。白いばかりじゃ無くって、灰色に、心にまだらな模様をした人の姿が」
私はそれで、頷いた。
でも、それは少しだけ意外な気分での頷きだった。
私は空や雲や天国をそんな風に捉えたことはなかった。
雲は白く、天国は白く、空は気持ちよく青い。
だけどそれはイメージの一面に過ぎず、彼が観たいのは当たり前に空にある様々な雲の中で、特に、泣き出しそうな雨雲の上に立つ人の姿だという。
「世界で一番高い塔の上に立てば、そんな雲を見下ろすことが出来るのかな。でも飛行機じゃ高く登りすぎる。人なんて見えてもごま粒で、顔なんて分かりやしないだろう。だけど空へと続く塔の中の階段を上れば、もしかすればどこかの窓からその雲の国にじかに続いていたりするのかな」
彼の細く掠れた声は、そんなことを私に語りかけ、耳の奥をそっとくすぐり、心に細波を起こした。
それこそ、実は、いつものように。
「いつか行こうよ」
とだから私は行った。
彼が、その瞳の黒い眼でゆっくりと私を見た。
きっとこれは冗談で酔狂。
それでも、私は彼に言った。
「いつか、そんな塔の上に行こうよ。窓の外を見てみようよ。あなたがそこで何を探しているのかは知らないけど、あなたがそこに行くときには、私も一緒に見てみたいよ」
私はそう言って、少し笑った。
自然に溢れた微笑みだった。
彼は私のそんな顔を見て、どこか照れたように俯いて、右手の指先で鼻の頭をこりこりと掻いてみせた。
「ごめん。でもそんな塔は、きっとどこにもないよ。あるとすれば、空想か僕らの夢の中だけさ」
私はそんな彼に、何か言葉を返したくなった。
でも、その言葉は彼にとって、助けであって欲しかった。
だから、思った事を、深く考えずに声にして出した。
「それなら、せめて同じ夢を見てみたい。駄目かな」
彼は私のそんな無責任で適当な言葉に、困ったような微笑みを浮かべ、私たちの目の前の本をぱたんと閉じた。
「いつか」
と彼が言葉を紡いだ。
「いつか、君と登れると良いな。そんな塔を。雨の落ちそうな灰色の雲を突き抜けて、灰色の天国に続く塔を」
その時ふと、彼の学生服の右袖から伸びる手から、青い痣が覗いた。
言葉を続けられなかった私のために、私たちの読書は、その日はそれが潮となった。
私たちはどちらからともなく席を立ち、本を書棚に戻すと、それ以上は会話もなく静かに図書室を後にした。

作品名:お蔵出し短編集 作家名:匿川 名