お蔵出し短編集
財界の大物である国重定信氏が亡くなったのは三日前のことだった。
日本経済最後の大物だとか、あるいは妖怪、怪物だとか揶揄された氏だったが、亡くなる時は呆気なかった。
老衰に勝てる者は誰もいない。
惚けが来ているだとかいろいろ噂はあった。
確かにここ一年というもの、氏の顔を見る者もなければ言葉を聞く者もなく、もちろん雑誌や新聞のインタビューなどを受けることもなかった。
だから、漏れ聞く状況も実は秘密のベールの先からチラリズムのように見え隠れする出所不明の情報のみで、僕としてはそれで記事を書く気にもなれず、頭の片隅に氏のことはいつも喉に刺さる魚の小骨のように引っかかってはいたものの、為す術もないために、網を投げ魚が掛かるのを待つ漁師のような気持ちで『忘れず覚えず』の距離感を取り続けるばかりだった。
なので、亡くなったという話を聞いた時は「然もありなん」と思うばかりで、別に感慨もなかったのが正直なところだった。
家族から僕の会社に届いた一枚のファックス用紙が、端的に氏の永眠を告げているのを見た時、僕はコーヒーを飲んでいた。
右手にカップ、左手にファックス用紙。
僕はその用紙を見ながらも、カップを傾ける手の角度が変わることはなく、喉には黒い液体が変わらない速度で流れ続けた。
つまりは、僕にとって氏の死とはその程度の意味でしかなかった、ということだ。
だがしかし、葬儀については取材に行くことになった。
当然と言えば当然だ。
何しろ氏のことは僕が担当していた。
言うならば、これはハイエナのような僕が氏を送る最後の餞、と言えば格好が良いが、一種けじめというか、正しくは寧ろハイエナらしく氏の死肉を食みに行くようなものだ。
氏の最後に、最後の一食みを与りに行く。
僕がそこに赴いたのは、そんな記者としての当然の在り方に従ったに過ぎない。
僕は文字を書いて、伝えて、生きるのだ。
その事に疑問を持っていては、僕は今、ここに居ることは適わなかっただろう。