お蔵出し短編集
人間賛歌・高木さん編
高木さんは水族館の中で、泣いた。
それも、しくしくとか、さめざめとかではなく、いきなり大声で三つの子供のように号泣を始めた。
だから引率の先生は驚いて高木さんの脇に駆け寄った。
それはそうだろう。
僕ですらきっと高木さんは、きっと急な何かの病気なのだと思ったくらいだ。
大人である先生がそれくらいのことを考えないはずがない。
でも、高木さんは理由を話さなかった。
というか、多分理由を話すほどの余裕がなかった。
高木さんはひたすらに泣いた。
おいおいと泣いた。
しゃくり上げ、結局先生方も途方に暮れることとなった。
だから、高木さんは生徒の列から離れ、担任の先生にどこかへ連れられていった。
水族館。
例えば、クラゲに刺されて痛かったのなら分かる。
サメに噛まれて指を無くしたとか、そんなことならもの凄くよく分かる。
でも、当然ここは『水族館』で、絶対的に安全で、僕らと水族の間にはまず分厚いガラスの壁がある。
だから僕たちが彼らを見るように、せいぜい彼らも僕たちを見はするけれど、お互いそれ以上のことは出来ないし、そもそも物理的に干渉は有り得ない。
物理的に。
そこで僕ははたと思い至った。
では、物理的でなかったとしたら、高木さんには何があったんだろう?
精神的な何かだろうか?
精神的?
とは言え、例えばテレパシーとかそんなファンタジー何かではなく、それを目の当たりにすることで何かが高木さんの心の琴線に触れたのだとしたら?
トラウマ的何かがそこにあったのだとしら、それは何だろう?
今受けた心の傷か?
過去に受けた心の傷なのだろうか?
で、僕たちがここにいるのは中学校の校外研修の為なのだけど、中学生で人前で号泣というのは、普通そう無い。
何が高木さんにそうさせたのか、僕にはさっぱり分からない。
―――そんなことがあって、十五年が経ち、そして今日。
僕は水族館にいる。
何の縁だかそこに就職し、飼育係になり、スイムスーツを着て水槽の中に潜っては魚たちにエサをやるところをお客さんに見せたりしている。
ふと、僕がある時『かつてそんなことがあった』と思い出したのは―――
ガラスの向こうで、女の子が泣き出したからだ。
きっとそれは世も末かと言わんばかりの号泣で、一気に感情に火が付いたかのように泣き出したかに見えた。
しかし、
分厚いガラスのこちら側にその声は聞こえない。
水の中から見える、夥しく彼女の頬を伝い流れる涙が、泣いているという事実を僕に知らせただけだ。
僕の見ている前で、その子の肩を誰かが抱いた。
母親のようだった。
優しく抱き留めると、その子は母親の胸に顔を埋め、肩を震わせて泣き続けた。
理由というのは、誰にでも、何かに対してあるもので、
余人がそれを知ることは適わないことがしばしばある。
僕にとってあの時の高木さんの涙の理由はまさにそう言ったもので、今ここで泣く名前も知らない彼女の涙も、きっとそう言った類の理由によるものだ。
彼女はまだ泣いている。
そう言えば僕の記憶の中の高木さんも、あれ以来泣いた姿のままだ。
そんなことを思っていると、ふと、彼女の肩を抱く母親の顔が見えた。
その顔は優しく微笑んでいて、彼女を包み込むようで、彼女の『理由』も、きっとその中に捕らえ込んでいつか融かしてしまうのだろうと僕には思えた。
その母親が顔を上げた一瞬、僕と視線が絡んだ。
すると母親は『すみませんね』とでも言うかのように頭を下げて、照れたように、困ったように眉根を寄せていた。
高木さんは水族館の中で、泣いた。
僕の記憶の中で、半ば薄れかけていた高木さんの面影が浮かび上がり、なぜかその母親の表情に重なった。
そして今、
ガラスの分厚い壁と、
トン単位で注がれた水槽の水を挟んで僕と向かい合うその母親は、
確かに十五年の歳月を重ねた『彼女』によく似て見えたが、
水槽のこちら側にいる僕にそれを確かめる術は、
あの時、彼女の『理由』を識る術がなかったのと全く同じように、
実に、どこにも無いままだった。
<了>